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かわうその川流れ日記⑫~またね、私の相棒~

12日目。

今日も、家の周りをいつものようにお散歩していたら、九死に一生を得た。

私自身がではない、私の長年の相棒である「六郎君」がだ。

彼は銀色の肌で、林檎の入れ墨をし、背丈は小柄で、まるで光を放っているかのように眩しい表情をしている。

私のお粗末な芸術性ゆえに、廃人に追い込むところだった。

彼には、いくら謝っても謝り切れないし、いくら怒られても怒られきれない。

事の顛末は以下の通りである。

昨日から冷たい雨が降りしきり、体も心も寒さに震えていたが、今日の午後、ついに女神が舞い降りた。柔らかで暖かい陽光が私の心に再び明かりを灯したのだ。

部屋のドア、玄関の扉を、光を横目に見る速度で開いた。扉の先に一瞬過去の面影、懐かしき少年時代との邂逅を果たしたが、すぐにスピードを落とした結果、現在と再会、無事家の外へ出ることが出来た。

あとは、いつもの穏やかな旅路。棚田広がる開けた道路を抜け、空を竹が、地面を不安が包む、凸凹の道を行く。

その時見つけてしまった。石垣から突き出たパイプから勢いよく噴き出す透明な命の源を。私たちをいくら満たしても満たしきれない、歓喜と悲哀の正体を。

水だ。すなわち水だ。紛うことなきウォーターで、アグラで、オーで、アクアで、バッサーで、マォンで・・・・・。

まさにその煌めきは、大地の咆哮、いや、自我では抑えられない生命の溶出、すなわち「嘔吐」であった。

私は、これを写真に収めたい気持ちで堪らなくなった。

だが離れたところから、形を切り取るだけでは、はなはだ虚しい。

絶対にその脈動を捉えて見せると息込んだ結果、私は六郎君をその清流へと放り込んだ。

ごめん、六郎君。偉大な芸術には、尊い犠牲がつきものなのだ。

その成果がトップの写真。

その後彼はしばらく、失神と覚醒を繰り返す、絶望マシーンと化してしまった。

許して、六郎君。もし私の誠意を認めてくれるなら、また一緒に歩んでくれ。







久しぶり六郎君。またちょっと外を歩いてみようか。







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