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第22走者 岩永洋一:空条承太郎とグレートサイヤマン

 オッス、オラ悟空。ではなくて、皆さんこんにちは、川谷医院の三番手、岩永です。今日はタイトルにあるように、あとでドラゴンボールに触れるので孫悟空風のスタートにしてみました(笑)。
 前回私は「期待」についてお話しし、以下のような文章で終わっています。
今日お話したことは「期待」が「呪い」になることがあり、でも「期待」という愛情がなくても子供は育たない、というお話でした。今度は(いつになるかわかりませんが)、「期待」と愛情のバランスのいい親子関係について書いてみたいと思います。
なので、私が思う「「期待」と愛情のバランスのいい親子関係について」、今日は2つの芸術作品からその在り方を書いてみたいと思います。
 
①  空条承太郎とジョースター家 「ジョジョの奇妙な冒険」より
最初に書くのは「ジョジョの奇妙な冒険」第三部の主人公、空条承太郎と母方家系であるジョースター家の関係性です。「ジョジョの奇妙な冒険」は1986年から今も続く長寿作品です。現在は第9部で、部が変わるごとに主人公、時代、舞台が変わります。そしてその全ての主人公の名前に「ジョジョ」という言葉が刻み込まれています。例えば第一部の主人公は「ジョナサン=ジョースター」、第二部は「ジョセフ=ジョースター」、第三部は「空条承太郎」、第四部は「東方仗助」、第五部は「ジョルノ=ジョバーナ」、第六部は「空条徐倫」という風に、です。カタカナの名前の人達は「「ジョ」ナサン=「ジョ」―スター」という風にわかりやすいと思います。空条承太郎は「くう「じょ」う「じょ」うたろう」で、空条徐倫は「くう「じょ」う「じょ」りん」。東方仗助(ひがしかたじょうすけと読みます)は、仗助を音読みにしてジョウジョ⇒「ジョジョ」となります。リアルでジョジョの奇妙な冒険を読んでいた世代としては、主人公が変わるごとにどこに「ジョジョ」が盛り込まれるのか、それを楽しみにしておりました(あとは第三部から「スタンド」と呼ばれる特殊能力を皆が持つようになるのですが、次の主人公はどんな特殊能力を持つのだろう、仲間や敵はどんな特殊能力を持つのだろう、どんなスタンドのビジョンなのだろう、というのも楽しみの一つでした)。
「ジョジョの奇妙な冒険」第一部は19世紀中盤のイギリスから始まります。貴族ジョースター家の一人息子、ジョナサン=ジョースターが主人公です。ジョースター家に、父ジョージの命の恩人の息子、ディオ=ブランドーが居候としてやってきます。ディオは大変な野心家で、ジョースター家で好き放題します。ジョナサンの愛犬を殺し、許嫁にちょっかいを出し、最終的にはジョナサンの父ジョージを殺してしまいます。さらには、ディオは日光以外では命を落とさない吸血鬼というモンスターとなり、ジョナサンとディオの戦いが始まります。第一部の最後、ジョナサンはディオをぎりぎりのところまで追い詰めますが命を落としてしまいます。かなりのダメージを負って首だけになってしまったディオはジョナサンの体を奪い、力をためるために長い眠りにつきます。ここからジョースター家とディオの因縁の関係が始まります。
第二部はディオが出てきませんので飛ばして、第三部に行きます。第三部の主人公は空条承太郎という日本人高校生で、舞台も1988年の日本となります。彼はジョナサンの玄孫、つまり孫の孫となります。第二部の主人公、ジョセフ=ジョースターはジョナサンの孫にあたり、彼の娘、ホリィが日本のミュージシャン空条貞夫に嫁ぎ生まれたのが承太郎になります。承太郎は「不良のレッテルをはられ」「ケンカの相手を必要以上にブチのめし、いまだ病院から出てこれねえやつもいる」「イバるだけで能なしなんで気合を入れてやった教師はもう二度と学校に来ねえ」「料金以下のマズイ飯を食わせるレストランには代金を払わねーなんてのはしょっちゅうよ」と絵にかいたような不良です。
その1988年にディオが長い眠りから復活し、ジョースター家とディオの戦いは再開されます。ディオが復活したことはジョースター家の人間に影響を与え、ジョセフと承太郎にはそれが特殊能力スタンドとして芽生えますが、ホリィには命を脅かす重病となってしまいます。承太郎は、ジョセフからジョースター家の運命を聞かされ、ディオを倒す旅に出ることになります。勿論母親の体のこともありますが、不良の承太郎がジョースター家の宿命を「やれやれだぜ」「オラオラ」と言いながらも素直に受け入れる姿、「そこにシビれる!あこがれるぅ!」のです。前の私のエッセイでいうと、承太郎は一見絵に描いたような不良ですが、親(ジョースター家)の期待を受け入れて生きる孝行息子ということになるでしょう。
さらにその先をいうと、承太郎は海洋学者の道を選びつつも、スピードワゴン財団というジョースター家の活動を支えてくれる財団に加わり、世界中の吸血鬼の残党退治に向かいます。また第六部の主人公「空条徐倫」は彼の娘であり、そこにも「ジョジョ」の名前を継承させています。そんなところはジョースター家の「期待」に沿って生きる姿だと言えます。
ちなみに私は第四部の主人公、東方仗助をグレートに応援しています。いつか彼の生き様についても書けたらいいなと思っています。ドラララ。
第三部の原作は1989年~1992年に週刊少年ジャンプで連載されており、当時はそういう血統の在り方を受け入れる姿や絵にかいたような不良が社会的に望まれていたのかもしれません。最初に書きましたが、ジョジョの奇妙な冒険は約40年続く長寿作品です。各部の主人公の血の受け入れと当時の社会が持つ「期待」はかなりシンクロしているのではないかと考えます。その視点でこの長寿作品を見てみるのも興味深いと思います。
 
 
②  グレートサイヤマンと孫一家 「ドラゴンボール」より
「ドラゴンボール」は1984年から1995年の間、週刊少年ジャンプに掲載された人気作品です。原作のアニメが終了した今でも新シリーズのアニメが続いています。今でも世界中で大人気です。原作者の鳥山明先生が今年の3月1日に急逝されたことは世界中のファンを悲しませました。私もドラゴンボールを見て育った世代としてショックと悲しみを覚えました。
ドラゴンボールは孫悟空という少年が、ライバルとの戦いを経て成長し、青年となり、父となり、世界を守るために悪い奴らと戦う、そういう話です。私がここでフォーカスを当てたいのは孫悟空の長男、孫悟飯です。この「孫悟飯」という名前は、孫悟空の育ての親からとった名前です。ちなみにジョナサン=ジョースターは自分の息子にジョージ=ジョースター(2世)という父親の名をつけています(息子が生まれた時にはジョナサンは死んでいたので、ジョナサンがつけたというよりは妻のエリナがつけたということになるでしょうけど、ジョナサンは父親のことが大好きだったので、多分彼の願いだったのだと思います)。昔は親子・きょうだいで同じ漢字を使うとかではなく、死んだ祖先の名前を付けることは結構よくあることでした。
ドラゴンボールは多くの方が見たことあると思います、孫悟空はオレンジ色の道着を着て戦います。もともとこの道着は孫悟空の師匠である亀仙人のもので、胸と背中には「亀」の字が刻まれていますが、孫悟空は途中から「悟」という文字を刻んでアレンジしています。
孫悟飯は、戦いの無い平和な時代に生まれました。小さい頃から母親であるチチの「期待」を受けて学者になるために猛勉強させられます。そんな中、強敵ラデッィッツの襲撃を受けます。ラディッツは孫悟空とその仲間ピッコロにより撃退されるものの、更なる脅威ベジータの襲来が予言されます。孫悟飯は強くなるために、ピッコロのもと修行をさせられます。ピッコロはナメック星人という異星人で、緑色の肌に紫の道着を着ています。孫悟飯は、戦いを嫌がりますがやむなく戦いに巻き込まれていきます。
ベジータとの戦いの後、人造人間セルとの戦いの時、孫悟飯はピッコロと同じ紫の道着を着て戦うことを選びます。また、その後の魔人ブウとの戦いは、孫悟空と同じオレンジの道着で戦います。私が注目したいのは、その二つの戦いの間の平和な時代、高校生の孫悟飯がグレートサイヤマンを名乗っていた時期のことです。
この頃は平和な時代でした。学者になるというチチの夢は孫悟飯の夢ともなっており勉学に励みます。しかし町にはびこる強盗など悪を断ずるために彼が変身したのがグレートサイヤマンです。グレートサイヤマンはオレンジ色のヘルメット、緑色の服に黒のアンダーウェア、赤いマントといういで立ちです。その後バージョンチェンジして、ヘルメットが怪傑ハリマオのような白いバンダナとサングラスに変わります。このバンダナはアニメ版が白で、原作ではオレンジでした。このグレートサイヤマンの格好は賛否両論です。というか多くの方が「ダサい」と言いそうですが、孫悟飯と弟である孫悟天は「格好いい!」と言います。これは俗にいう中二病の心性と思います。孫悟飯は中二病真っただ中なので自分の姿に酔っているし、孫悟天はまだ5歳くらいで、そういう姿にあこがれるでしょう。ただそれ以外の人達には「ダサく」「イタく」映るのでしょう。その後の話でグレートサイヤマンが出てこないのも中二病に伴う黒歴史ということでしょうか? ちなみに私はグレートサイヤマンを格好いいと思っています。グレートサイヤマンを知らない方は是非ネットで画像を検索して、ご自身の判断をしてみてください。
さて、孫悟飯と「期待」について振り返ってみたいと思います。彼は最初母親であるチチの期待に応じて学者になるために猛勉強に応えます。ですが、セルとの戦いの時に、親ではないピッコロの道着を着て、彼との同一化を図ります。それはピッコロが求めたものでもなく、孫悟空やチチが言ったことでもありません。孫悟飯の意思です。私はここに彼の反抗期の萌芽を感じます。親ではない別の大人に憧れを感じ、その人のようになりたい、という発達の段階です。
そして次にグレートサイヤマンの時期です。これは孫悟空でもなくピッコロでもなく、自分がどうなるかを模索する時期に当たります。確固としたこうなりたいという目的地の無い、だけど大人の社会に船出しなければいけないという冒険の時です。その時の子供のもがきが、大人から見れば、もしくは後で本人が振り返れば大変恥ずかしいものになる、それが中二病の時期だと思います。もちろんかなり現実離れした自己像を空想することもありますが、船出への不安故と思われます。ですがこの嵐の時期の自己像の空想は振り返りたくなく、故に黒歴史と呼ばれるのでしょう。
私がグレートサイヤマンを格好いいなと思うのは、そのビジュアルもそうですが、オレンジのヘルメット(とバンダナ)と緑色の服です。これは孫悟空のオレンジ色の道着と、ピッコロの肌色の緑が表象されているのだと思います。孫悟飯の自己を確立しようとするもがきのグレートサイヤマンの中に、父である孫悟空と恩師のピッコロにあやかりたいという思いが見え隠れして、格好いいなと思うのです。そういう風にしてみたら、あのダサい格好にも自身の「中二病」「黒歴史」が見え、そのダサ格好良さが見えるのではないでしょうか?
そして最終的に孫悟飯は父親と同じオレンジの道着に戻りますし、最終的に学者の道を選びます。彼が着る衣服の変遷に見える心の旅は、幼少期の期待に添うところから始まり、自身の在り方を見つけ、それが親の期待と合致していく、その流れだと思います。前のエッセイで杉本先生は「ソラニン」を引用して思春期/モラトリアム期の生き方について述べました。私は「中二病」「黒歴史」としてグレートサイヤマンを語りましたが、それも、孫悟飯のこの時の乗り越え方の一つとも言えるでしょう。
鳥山明先生は亡くなられ、ドラゴンボールは引き続き孫悟空の物語となっているようです。やはり主人公に期待は戻っていくようですが、私はずっとグレートサイヤマンを応援しています。
 
私が思う二つの「「期待」と愛情のバランスのいい親子関係について」書いてみました。方や血統と運命を素直に受け入れ、方やわずかな葛藤と回り道を経て受け入れていく、その姿を芸術作品をもとに描いてみました。これは親の側からも子供の側からも激しい葛藤を感じずに大人になり、それが双方に受け入れられる話です。おそらくそれは孫悟飯の場合、葛藤の旅を干渉せず見守る父親、孫悟空の在り方によるものもあるでしょう。
実際は親や血族が求めている期待と全く別の道を行く子供もいるでしょう。私は、そんな子供たちに対しても、ただ「健康に達者に生きてほしい」、そう願える親の心が一番の愛情だと思います。ですがそれをすることも大変なことだと思っています。いつかそのような親子別々の道を行く、そんなあり方の親子についても描いてみたいと思います。ではまたお会いしましょう、次の走者にバトンを渡したいと思います。To be continued・・・。また見てくれよな。

 

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