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第6走者 川谷大治「人はなぜ褒められると嬉しいのか」

柴田先生の代走です。

稲員先生がベイトソンの話に触れましたので、その話からはじめます。話は今から数十年前に遡ります。統合失調症の病因の一つにベイトソンの「二重拘束」理論が注目されました。母親が子どもに対して二重のメッセージを同時に送ると統合失調症の原因になるという仮説です。当時は有力な仮説の一つでした。詳しく言いますと、二重拘束理論とは、母親が子どもに言語的メッセージと同時にそれと矛盾する非言語的メッセージを送ると、子どもは葛藤状況に陥り、それが日常的に続けられると、統合失調症を発症するという考えです。例えば、仏頂面して好きだよと語りかけるようなものです。
好きな人にそんな言われ方されたら悩みますよね。私も飼っていた犬のホームズにしかめ面して「おいで」と優しく語りかけてみました。ホームズは近寄ろうとしつつ後ずさりして、最後は「ワン、ワン」吠えていら立ちました。ベイトソンの理論は正しいのですが、それが統合失調症の原因になるかというと、現在は否定されています。
なぜ人は褒められると嬉しいのか?
それで今回のテーマは「なぜ人は褒められると嬉しいのか」です。これは、私が精神科医になってから考え続け答えが出なかった、問いの一つです。存在を認められるから、自己評価が高くなるから、いろんな答えが出てきますが、いずれも正解ではありません。というのは、なぜ認められると嬉しいのか、自己評価が高まるとなぜ嬉しいのか、と質問が続くからです。本質をついていません。答えはスピノザ『エチカ』の“感情の模倣”にありました。それで今回はスピノザの“感情の模倣”です。
感情の模倣も二球の衝突の法則に従います。人間身体は外部の物体の衝突によって刺激され、その身体の変状には外部の物体の本性とともに身体の本性が含まれます(第二部定理一六)。その二球の衝突の際に、外部の物体が人間身体である場合には、「もし外部の物体の本性が我々の身体の本性に類似するならば、我々が表象する外部の物体の観念は、外部の物体の変状に類似した我々の身体の変状を含むであろう」(第三部定理二七証明)といい、他者の感情に類似した変状が自己の身体にも生じるのが感情の模倣です。
我々と同類のものでかつそれにたいして我々が何の感情もいだいていないものが、ある感情に刺激されるのを我々が表象するなら、我々はそのことだけによって、類似した感情に刺激される(第三部定理二七)。
感情の模倣とは、自分と同類のものの感情が意図せずに模倣されていく現象です。
我々と同類のものとは、我々に似ている事物、すなわち人間のことです。このとき「我々が何の感情もいだいていないもの」とスピノザが但し書きを入れる理由は、愛する人が喜ぶことを表象すると私も喜びを感じるけれど、それとは逆に、憎んでいる者が喜ぶことを表象すると私は悲しくなるからです(第三部定理二七証明)。愛する人が転んだら駆け寄るけれど、嫌いな人だと思わず笑ってしまうように、スピノザはわざわざ「我々が何の感情もいだいていない」と付け加えるのですね。保育園だと感情の模倣の例はいくつも観察できます。泣いている赤ん坊を見て隣にいる赤ん坊も泣き出す場面はしば
しば遭遇します。太宰治は感情の模倣が自分にはないと『人間失格』(1948)で語っていますね。
つまり,わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。
プラクテカルな苦しみ、ただ、飯を食えたらそれで解決できる苦しみ、しかし、それこそ最も強い痛苦で、自分の例の十個の禍など、吹っ飛んでしまうほどの、凄惨な阿鼻地獄なのかも知れない、それは、わからない・・・・。
他者の心は、人間であれば、感情の模倣によって瞬時に共有できるものです。しかし太宰治は、それができなかった、と言っているのです。人を必要としているのにそれができないので、太宰治はそこで考え出したのは、道化でした。
それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。
このスピノザの“感情の模倣”は20世紀になって脳神経科学の領域から科学の表舞台に登場してきました。イタリアのジャコモ・リゾラッティのチームが 1990 年代に発見したミラーニューロンの提唱です。リゾラッティのチームはチンパンジーに脳波をつけて、脳のどの部分が感情を司るかを調べていました。昼休みになってチームは控室に戻り昼食を摂っていました。そのとき部屋のドアが開いていて、食事をしている姿を見たチンパンジーの脳波にある活動が現れたのです。つまり、チンパンジーもあたかも自分が食事をしているかのように脳のある部分が活動したのです。その活動部分は「自分がある行為をしていても、他者がその行為をするのを見ていても、まるで鏡に映したように同じように活動する神経細胞」の働き、という意味でミラーニューロンと名づけられました。精神分析領域ではラカンの鏡像段階が有名ですね。私はそれを生後 7 ヶ月の赤ちゃんの3本の動画に発見しました。1本目の動画はこうです。
動画の始まりには母親に抱かれている生後7ヶ月の赤ん坊が映っています。母親はおもちゃのラッパを赤ちゃんに持たせました。赤ちゃんは手にするものなら何でも口に持ってきます。そして大人たちは赤ちゃんがラッパを鳴らすのをまだかまだかと待っています。母親は赤ん坊に「プー」と吹くように催促します。そのとき偶然にも口にしていた赤ちゃんのラッパから呼吸に合わせて音が出ました。周りの大人たちは赤ちゃんがラッパを吹いたと手を叩いて喜び合いました。赤ちゃんは喜ぶ大人を見てキョトンとしていましたが、1、2 秒後に、3人の大人たちの喜びに触発されて赤ちゃんも一緒に喜んだのです。
これが「感情の模倣」です。赤ちゃんはラッパから音が出ても最初は喜んではいません。大人たちが喜んでいるのを見て赤ちゃん自身も喜び始めたのです。そこにはタイムラグがあるのです。2本目の動画には、赤ちゃんがラッパを口にするシーンが出てきます。ラッパをくわえ自分の意志で音を出そうとしています。しかし、音はなかなか出てきません。そのうち諦めた赤ちゃんは、ラッパで横にあるカホーンを叩いて音を出したのです。カホーンは手で叩いて音を出す打楽器です。それを赤ちゃんは覚えていたのですね。3本目の動画にはラッパを口にくわえ音を出そうとする赤ちゃんが映っています。息を吐いて音を出しました。そして、プープーと鳴らして体を揺すって喜んだのです。遊びの始まりですね。
3本の動画は赤ちゃんの成長の姿を捉えています。赤ちゃんの気持ちになって動画を描写してみます。1本目は感情の模倣。2本目は音を出そうという赤ちゃんの意思が映し出され、3本目は思い通りにラッパが鳴って喜ぶ姿が映し出されています。「ラッパから音がでると大人たちは喜んだ。それを見た私も嬉しくなった。しばらくして私はラッパを鳴らして自分を喜ばそうとしたけどラッパから音が出なかったのでカホーンから音を出して代わりにした。自由に音を出せるようになってラッパを吹いて喜んだ」。
人が褒められて嬉しいのも、赤ん坊のころから「這えば立て、立てば歩け」と成長を喜ぶ大人を模倣したことがベースになっているのがよくわかります。この感情の模倣は精神分析家 D・スターン(1989)の情動調律と同じです。情動調律は、赤ちゃんがラッパを吹いて喜ぶように、自己感形成の基礎になります。情動調律とは「内的状態の行動による表現形をそのまま模倣することなしに、共有された情動がどんな性質のものか表現する行動をとること」です。感情の模倣も情動調律も文字通りの模倣とは違って、言葉を使用せずに相手の気持ちが分かるのです。母子関係では母親による“映し出しmirroring”として、臨床場面では共感的対応として観察できます。D・スターンによると感情の模倣は生後9~15ヶ月の赤ん坊から観察され(動画の赤ん坊は生後7ヶ月)、赤ん坊の行動は文字通りの模倣を越え、情動調律という行動カテゴリーへと発展し始めるのです。動画の2本目、3本目はそれを見事に映し出していますね。マッチングは、相手の行動自体にではなく、むしろその人の感情状態を反映するような行動の側面において行われるのが重要なポイントになります。
感情の模倣の具体例をスピノザは以下のように述べています。

他人が逃げるのを見て逃げ、あるいは他人が恐れるのを見て恐れ、あるいはまたある人がその手を焼いたのを見てそのため自分の手を引っこめて、あたかも自分の手が焼かれたかのような動作をする人、そうした人を目して我々は、他人の感情を模倣する(第三部諸感情の定義三三)。
フライパンに間違って手を触れ、思わず「アチッ」と声を出して手を引っ込めるシーンを見た人も、あたかも自分がフライパンに触れたかのように手を引っ込めるシーンをスピノザは描写しています。感情の模倣は、人と人の間に生じる現象故に、集団心理の始まりでもあるのです。大講堂に大人数が集まっているときに、その中の誰かが「火事だ」と叫んだら、その真偽を確認しないうちに多くの者が逃げ出すシーンを思い描くと分かりやすいですね。スピノザは『神学・政治論』で感情の模倣から集団心理を説明しています。それは今日のSNSの大炎上を説明する際に重要なキーワードになるので、いずれ取り上げようと思います。
それでは、私たちが日常生活で少しでも悩みを軽くできるように、スピノザの知恵を借りていくつか方策を考えてみたいと思います。

1.悲しみの模倣
悲しみの模倣は憐憫と呼ばれます。憐憫とは憐みのことです。憐みは、「我々はこれを他人の不幸から生ずる悲しみである」(第三部定理二二備考)と定義されています。
悲しんでいる人の傍にいくとこちらも悲しくなります。島国に生まれ育った日本人はそれを空気として感じる特性を身につけていきます。そして自然に「どうしたの?」と手を差し伸べます。医師は患者さんに「どうされましたか?」と問います。医療の原点は、この憐みの模倣から始まります。
ところがスピノザは、その憐みを理性によって導くように説きます。どういうことなのでしょうか。スピノザは、憐憫(憐れみ)は悲しみの感情なので「理性の導きによって生活している人間においてはそれ自体で悪でありかつ無用」だといいます。「憐憫から生ずる善、すなわち我々が憐憫を感ずる人間を救おうと努めることに関して言えば、我々は単に理性の指図のみによってこれをなそうと欲する」、「また我々は確実に善であると我々の確知することを単に理性の指図のみによってなしうる」と述べています。憐れみは容易に憎しみに転じるし、他人の不幸や涙に動かされる人は後悔することをしばしば行うし、偽りの涙に欺かれる、とスピノザは忠告しています。
憐れみの感情は悪だから「利他的行為」に一抹の淋しさ(罪悪感)が伴うという例は、志賀直哉の短編『小僧の神様』(1920)の中に見出せます。(今年の6-7月、遠見書房から『スピノザの精神分析』を出版予定です。その中で引用していますので、興味のある方はご購入のほどよろしくお願いします。)私たちが人間関係に大切にしている共感は憐みを土台に成り立っています。共感は悲しみの感情であるがゆえに「それ自体で悪でありかつ無用」というスピノザの指摘は耳の痛い話ですが、とても重要なことなので例を提示します。
ある女性が夜道を急いで帰ろうとして、いつもとは違う人通りの少ない道を通った。運が悪いことに彼女はレイプ犯に遭ってしまった。家に帰りつくと母親から「どうしたの」と聞かれ、事の顛末を話したところ、動転した母親は「あんたがあんな危険な道を通るからよ」と責めたてたのです。
このように共感(憐れみ)は憎しみに転じやすいので、スピノザは理性によって導かれることを勧めているのです。うつ病の患者さんを励まさないように、という教えもこのスピノザの知恵から説明されます。落ち込んでいる人を見ると、どうしても、励ましたくなるのが人情です。しかし励まされた人に余力がなかったらどうでしょう。「それに応えられない自分はなんて駄目な人間なのだ」と自責の念は倍加します。
2.欲望の模倣
スピノザは3つの基本的感情の一つに欲望を挙げています。そして、この欲望も模倣されるのです。
1)競争心
競争心の定義は「競争心とは我々と同類の他のものがあることに対する欲望を有すると我々が表象することによって我々の中に生ずる同じ欲望にほかならない」(第三部定理二七備考)です。「隣の芝生は青い」を例に考えると分かりやすいですね。スピノザは言います。鳥が空を自由に飛び回り、魚が水の中をすいすい泳ぐのを見ても競争心は生まれないのに、隣人のそれは見逃さずに模倣すると。隣の人がレクサスを買った。それを模倣して自分もレクサスを買いたくなるのですね。
2)名誉欲
スピノザは「各人は自己の利益を求めるべきである」(第四部定理一八備考)のに、実際は、他人に自分の意向を押し付けることに躍起になっている、と述べてます。その原因は感情の模倣にあります。他人が賞賛するだろうと思われることをおこなったとき、われわれはある喜びを感じます。賞賛されることをすると相手が喜ぶ。その姿を見ても嬉しくなるのです。ところが、褒められるためには他人が必要です。人は相手が喜ぶ姿を見て自分も喜ぶわけですから。だから、自分を喜ばすために、人を喜ばそうと躍起になって逆転現象が起きるのです。私たちの感情は他人の感情なのです。
ここに不幸が待ってます。つまり、愛され、認められたいという欲望は、人を介して達成されるようになり、空振りに終わると、躍起になって喜ばそうとするのです。人の心は天気と同じで思いのままにならない。そのために、嫌われた、認められていない、変な人間と思われたとイマギナチオし、心の中は悲しみが充満することになる。それを払拭するために一層人に頼ってしまって苦悩に陥るのです。
ところで、同じ褒められると言っても、あえて誉め言葉に皮肉や告発を入り混ぜる政治手法としての「褒め殺し」の場面では、褒める側には憎悪と怒りが満ちているので褒められる方は決して喜べない。おだてているのか、心底敬服しているのか、私たちは意識を介さずに瞬時にわかるのです。
さいごに
人は相手が喜ぶ姿を見て自分も喜ぶ。だから、自分を喜ばすために、人を喜ばそうと躍起になる。このとき、人に頼らずに、自分を喜ばす事を、それもみんなに共通することをして喜べるのであれば、少なくとも、空振りに終わることはない。人に頼らずに自分の利益を第一に考えて、自分を喜ばすと、楽しそうにしている自分の周りに人を寄ってくるでしょう。私の楽しみはスピノザを読んで、セラピーで苦労し、その経験をこうして発表することです。真理を追究するという高級な楽しみではありませんが、そのおこぼ
れにあずかるのは確かです。

バトンを第六走者の柴田先生に渡します。

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