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第3走者 岩永洋一「鬼はうち、福もうち」

第三走者を仰せつかりました岩永です。第二走者の杉本先生から渡されたバトンに書いてある文字は、「鬼」と「柱」だと理解しました。「柱」は「鬼滅の刃」の世界で、鬼を退治する集団である鬼殺隊の中の、力もカリスマも中心的な9人、それこそ鬼殺隊の柱となる人達です。ちなみにこの「9」という中途半端な数字は、柱の字が9画ということから来ているそうです。さて、「柱」のバトンはこのくらいにして、私は主に「鬼」のバトンを考えてみたいと思います。
「鬼」という言葉の起源は諸説あるそうですが、「隠(おぬ)」が転じたもので、姿の見えないものやこの世ならざるものを指したり、死者の魂という意味があったようです。それに仏教の獄卒や日本の民間伝承、陰陽道などの影響を受けて、平安時代には人間を食う怨霊の化身という形になったようです。
 鬼の出る時事ネタということで節分について考えてみたいと思います。2月3日に「鬼は外、福は内」と言いながら豆をまき、年齢の数だけ豆を食べて1年の無病息災を祈る伝統行事です。小さい頃は鬼のお面をかぶったお父さんや保育園・幼稚園の先生に豆を投げつけながら、「鬼は外」と言って追い払った記憶のある方もいるでしょう。
これが一般的な節分ですが、「鬼は外、福は内」ではなく「鬼は内、福は内」と言って豆を投げる家庭があることを御存知でしょうか? それは「ワタナベ家」と言われています(ワタナベには渡辺、渡邊、渡邉、渡部等色々な表記があり、どのワタナベ家が「鬼は内、福は内」と言うのかまではわからないので、ここでは「ワタナベ」表記として話を進めます)。私の知人のワタナベ氏に事の真偽を確かめたところ、氏の家では確かに「鬼は内、福は内」と言っていたそうです。氏は、2月の寒い冬空の下、どこの家でも追い出される鬼を家に入れて温めてあげるんだ、と思っていたそうです。氏は今回の能登の震災にも大変心痛めており、被災者の心細さへの思いやりは、この節分で鬼のことを思える優しさから来ているのだろうなぁと思っております。
では何故ワタナベ家ではそのような文化が育ったのでしょうか? その理由は渡辺綱の影響と考えられています。平安時代、酒呑童子といった鬼や土蜘蛛という妖怪を退治した源頼光とその四天王というリアル鬼殺隊のような人たちがいて、その四天王の一人が渡辺綱です。彼は茨木童子と呼ばれる鬼の腕を切り落とした逸話で有名です。この逸話のため、鬼は綱の子孫となるワタナベ姓を恐れて、ワタナベ家では節分で鬼を追い払わなくてよく、「鬼は内、福は内」と言う文化ができたと考えられています。余談ですが、今回調べたら坂田家でも同様のことがあるらしいです。坂田家は、源頼光四天王の一人坂田金時(金太郎の成長した姿と言われています)の子孫と考えられ、ワタナベ家同様鬼が逃げていくからと考えられているようです。他にも鬼滅の刃の竈門禰豆子の声優、鬼頭明里さんの鬼頭など鬼が付く名前の家も「鬼は内」というところがあるそうです。鬼は外というと、鬼頭さんは家の外に出ていかないといけなくなりますから・・・。他にも色々例外があるようですが、このくらいにしておきます。
この「鬼は外、福は内」の節分と、「鬼は内、福は内」の節分、その二つについて考えてみたいと思います。そのために英国の精神分析家メラニー・クラインが提唱した妄想分裂ポジションと抑うつポジションという二つの概念を援用してみたいと思います。この二つはいずれも乳幼児の心の在り方を指します。妄想分裂ポジションは、乳児が体験する空腹などの不快が自分の中から生じているのではなく、外から来ているという体験様式です。自分に「空腹」という名の不快を押し込もうとする悪い存在が外にいて、乳児はその存在に対して攻撃を加える空想をしていると考えられています。乳児にとって一番関わりが深いのは母親、特にそのおっぱいですので、空腹を押し込もうとする悪い存在は自然とおっぱいとなり、実際に母親のおっぱいを噛むこともあるでしょう。ですが、母親のおっぱいは空腹を満たすものでもあります。その矛盾を解決するために、乳児は空腹を満たして満腹をくれる「良いおっぱい」と、空腹を押し込む「悪いおっぱい」の2つのおっぱいがあると体験すると考えられています。この良いものと悪いものを分け、片や良いものからは満足を得て、片や悪いものには攻撃し反撃に怯える、これが妄想分裂ポジションの世界です。この世界観は善悪がはっきりしている単純なもので、乳児の心の発達が未成熟でも耐えられる世界になっています。
このような単純な世界を経ていくと、だんだんと乳児は、「空腹」を押し込んで自分を不快にしてきた「悪いおっぱい」と、自分に満足を与えてくれた「良いおっぱい」が同一のものであると気付き始めると考えられています。そうなると、自分が「良いおっぱい」に攻撃を加え傷つけていたという罪悪感が芽生え、そこから思いやり、反省、償いの気持ちが生まれ、乳幼児の行動に変化が生じてきます。これまでは不快に対して泣きわめくことしかできなかった幼児が、周りを気遣うことが少しずつできるようになる、この変化は外部の大人が観察できるものでしょう。「良いおっぱい」と「悪いおっぱい」は同じものだった、一つの存在が善悪合わせ持っており、その存在に自分も依存と攻撃を向けて傷つけていた、という複雑な世界観、これが抑うつポジションの世界です。
このように乳幼児の心は妄想分裂ポジションを経て抑うつポジションに到達しますが、この変化は一方通行ではなく、容易に妄想分裂ポジションに戻り、また抑うつポジションに至る、そういう揺れ動きをします。大人になった我々の心もこの二つの在り方を行ったり来たりしていると考えられていますが、よくよく考えると心の揺れ動きは実感できるのではないでしょうか。
幼児期に見る「スーパー戦隊シリーズ」「仮面ライダー」「プリキュア」等は、ほとんどが正義と悪の対立の構図になっています。最近は敵だった存在が味方になったり、敵側のドラマが描かれたりしているようですが、少なくとも私が子供の頃は善悪対立の構図が明白でした。この構図、そして正義が悪を倒してめでたしめでたしという勧善懲悪は妄想分裂ポジションの構図で、子供達のそのポジションと共鳴するから人気があるわけです。また、「水戸黄門」「仕事人」「暴れん坊将軍」「遠山の金さん」など、勧善懲悪の時代劇も長く続いており、これらは大人の妄想分裂ポジションの心に共鳴するから、人気があるわけです。一方で抑うつポジションの心が受け入れやすい作品は、登場人物の在り方がもっと複雑であったり、傷つきや喪失の悲しみが描かれていたりというものになります。「鬼滅の刃」は、一見「柱(と鬼殺隊)」と「鬼」という善悪の対立構図に見えます。一方で一部の「鬼」に悲しい過去があり、その悲しみに触れる物語でもあります。自身の妄想分裂ポジションの心を共鳴させ、我妻善逸の電光石火の剣撃と勝利の快感に酔うもよし。抑うつポジションの心で、竈門炭治郎が鬼を許したりする場面に共に涙を流すもよし。この2つの心の在り方どちらにも響く作品構成、それが空前絶後の大ブームを引き起こしたともいえるでしょう。
さて、そろそろ2種類の節分の話に戻りましょう。ここまで読んでいただけたら既にお分かりかと思います。「鬼は外、福は内」は、良いもの=福と悪いもの=鬼を、家の内と外で分ける在り方で、「良いおっぱい」と「悪いおっぱい」を分ける妄想分裂ポジションの在り方といえます。そこで子供は鬼を豆で攻撃するわけです。一方で「鬼は内、福は内」は福も鬼も同じ一つ屋根の下に入れて、良いおっぱいは悪いおっぱいでもあった、という抑うつポジションの在り方と言えるでしょう。もちろん上に述べたように、「鬼は内、福は内」の起源は鬼がワタナベ姓を恐れるからで、子供の思いやりからでないのですが・・・。
このように「鬼は内、福は内」の気持は子供の心の成長を示しますが、その前に「鬼は外、福は内」という妄想分裂ポジションによる節分も必要です。鬼に豆を投げて退治する勝利感を味わう時期も心の成長の栄養になるのです。そして心が成長したら、鬼はお父さん、もしくは先生であると気付き、そこから思いやりや償いの気持が生じ、「鬼は内、福は内」と言えるようになればいいなぁと思います。その体験と心の動きがその子供を心広い、他人の心を思える人間に成長させていくのですから。そのためには時が来るまで鬼であるお父さんは待たないといけないのかもしれません。

 さて、「鬼」と「柱」というバトンから思うことをつらつらと書いてみました。主に節分の話を書いたのですが、ホームページにアップする時には既に節分は終わっているという状況、残念です。次は渡邉先生にバトンをお渡しします。


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