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第9走者 柴田俊祐「エッセイを書く気が起きないことについて(中動態について、あれこれ考えてみる) 」

 リレー・エッセイを書くのをサボっておりました心理士の柴田です。普段は、川谷医院で心理療法(セラピー)をしたり、心理検査などをしています。岩永先生のエッセイは、皿うどんの話から始まって、多様性の話へ、そしてビオンの集団理論へと展開していって、なかなか面白かったですね。ちなみに、私は皿うどんにソースはかけません。


 さて、リレー・エッセイの順番が私に回ってきましたが、私はなかなか書けませんでした。エッセイを頼まれてから、1週間、2週間と過ぎて、様々な先生に、「エッセイ、もうできましたか?」と急かされながらも、私は書かず、川谷先生に代走してもらいながらも、私は書かず…、杉本先生や岩永先生に交代してもらった後も、なお書かない…、という徹底的な怠惰ぶりでした。我ながら呆れます。そうして、書かないでいると、だんだん書くこと自体が億劫になってきます。でも、こういうことって、皆さんにも多かれ、少なかれあるのではないでしょうか。「ああ、やらないとな」と思いながら、なかなか動き出せない。そして、自己嫌悪に陥るという…。
 一応、私も心理士の端くれですので、「何故、こんなに書く気が起きないのか…」と内省してみます。自分の心に聞いてみました。「そもそも私は何かを書くということは好きなのだけど、何で、今回はそんなにやる気が起きないのかな?」と思いめぐらします。そうすると、「私が能動的に、エッセイを書こうとしていないからかもしれないな」と思えてきました。「頼まれたから、やるか、というような受動的な取り組み方になっているから、なんか、やる気が起きない」と。もし、「自発的に何か書きたい」と思っていたとしたら、もう既に書いていると思うんですよね。それがそうじゃない、というのは、やはり私の心の中に、その動機付けを持たないからだと思うんです。
 だから、自ずとエッセイを書く「やる気」が起きてくれば一番なんですけども…(どこかの塾のCMで、『やる気スイッチ』なるものがありましたが、私にもそういうスイッチがあれば一番なのですが…)。それで、「やる気が起きる」には、どうしたらいいか…、と考えていく訳ですけれど、でも、そもそも「やる気が起きる」ということ自体、私が意図的に、そうすることってできるのでしょうか?私のように怠惰な人は、「やる気スイッチを押すためのやる気が起きない」ってなると思うんですよね。そもそも、「やる気が起きる」という現象って、本人の心の中に、自発的に起きるものであって、「やる気を起こす」というような能動的な試みではないのと思うんです。つまり、自然発生的に「起きる」という現象と、能動的に「起こす」という現象って、大きく違うと思うんです。そもそも、「(自然に)やる気が起きる」という現象を、能動的に「やる気を起こす」ということではなく、かといって、受動的に「(誰かによって)やる気を起こされる」(文法的にあっているのだろうか?)という訳でもなく、説明できるでしょうか?
 それで、少し前から私が関心を持っていた『中動態middle voice』という考え方をしてみようと思います。初めて聞かれる方は「中動態?何だ、それは?」と思われるかもしれません。私も、國分功一郎先生の『中動態の世界』という本を読むまでは知りませんでした(川谷先生に紹介されて読んでみましたが、とても面白い本です)。ちょっとここからは、難しい話になりますが、中動態とは、現代の言語体系にはないけれど、古代ギリシア語などの文法体系としてあったようです。現代の多くの言語体系では、「~する(do)」と「~される(be done)」という、能動態(active voice)と受動態(passive voice)という2つがありますが(中学英語でも習いますね)、中動態という動詞の分類は、現在の言語の中ではすでに消滅してしまっています。中動態というと、『中』という言葉が入っているので、能動態(active voice)と受動態(passive voice)の間にあるような印象を受けますが、実際にはそうではありません。古代ギリシア語では、能動態と受動態が対立しているのではなく、能動態と中動態が対立していたようです。そして、中動態の中に受動態も含まれていたと言います。
 國分先生は、『中動態の世界』の中で、中動態の例をいくつか挙げていますが、その一例として『惚れる』というものがあります。『惚れる』というのは、言語としては能動態で表されますが、『惚れる』という現象自体は、本人が能動的に行っていることではありませんね。例えば、Aさんが明確な意思を持って、能動的に「よぉし…、私はBさんに惚れるぞ…、惚れるぞ…」と思って、惚れることって、そうないでしょう(いや、可能性として、全くないとは思いませんが、そういう場合は稀でしょう。そして、そういう人がいたら、ちょっとコワイですね)。それよりも、もっと自然に、何故か分からないけれど、Bさんのことが魅力的に感じられて、それで『惚れた』ということがあると思うんです。では、『惚れる』という現象は受動的な体験なのでしょうか?ある部分はそうかもしれません。つまり、Bさんの人柄や容姿によって、AさんはBさんに魅了されて、「惚れさせられた」と体験しているかもしれません。でも、別にBさんはAさんに惚れてもらおうとは一切思っておらず、Aさんが勝手に「惚れた」という場合が大半でしょう。そう考えるとBさんの意思によって、Aさんを「惚れさせた」という訳でもないでしょう(ただ、もともと、BさんがAさんに好意を持っていて、Bさんが意図的に、Aさんに向けて何らかの魅力を発して、そして見事に「惚れさせる」ということに成功する、という場合もない訳ではないですが…)。つまり、『惚れる』という現象は、一応、言語の形態としては、能動態で表しますが、現象としては完全に能動的なことでも、受動的なことでもない、ということです。そして、古代ギリシア語では、そういう『惚れる』というような、能動でも受動でもないような事柄を記述する時に、中動態が使われていたようなんです。
 なぜ急に、難しそうな言語の話を始めたか、と言いますと、私たちが普段、ものを考える時に、言語の形態によって、思考の枠組みが決められているところがあるからです。つまり、能動でも、受動でもない現象を説明するのに、能動態と受動態しかない現代の言葉で説明するのって、難しいではないですか?『惚れる』の例のように、それが勝手に(自然発生的に)起こったことなのに、能動態と受動態しかない言語では、それを正確に言いあらわすことはできないと思います(例えば、Aさんが自ら「惚れた」のか、あるいはBさんが「惚れさせた」のか、というような、難しいことになります)。
 つまり、私たちの言語が、能動態と受動態のみを用いている限り、私たちは「~する」か、「~される」という思考の枠組みに縛られたままになります。そして、能動態と受動態という区分の言葉では、「その現象が、誰の意志や意図によるのか」ということを意識せざるを得なくなります。例えば、先ほどの例でいえば、能動的に『(自分の意志で)エッセイを書く』なのか、受動的に『エッセイを頼まれたから、書く』なのか、というように。あるいは、『(Aさんの意志によって)惚れた』のか、『(Bさんの意志によってAさんは)惚れさせられた』のか、といったように。
 しかし、國分先生は『中動態の世界』の中で、古代ギリシア語では、能動態と受動態の対立ではなく、能動態と中動態が対立していたと言います。その中でフランスの言語学者のエミール・バンヴェニストの定義を引用しており、能動態か中動態かを分けるポイントは、『作用する場所がその主体の外側か、内側か』によるのだと、示しています。
 バンヴェニストの定義を引用すると、「能動では、動詞が主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞がその主語のその座となるような過程を表している。つまり、過程は主語の内部にある」。…ちょっと難しいので、もう少しかみ砕いて言えば、その主体の外に作用する場合は能動態、その主語の内(あるいは主体そのもの)に作用する場合は、中動態と言えます。
 「作用する場所が、その主体の外か、内か」という定義に従うと、例えば、『与える』という行動は、能動態で表します。つまり、「AさんがBさんにお金を与える」というのは、主体であるAさんが、Bさんに作用しているからです。Aさんの「与える」という行為によって、Bさんの手持ちのお金が増えるという、Aさんの外側(Bさん)に影響を与えているということですね。その一方、「Aさんはもの思いにふける」とか、「Aさんは夢を見た」というのは作用するのは、主体自体なので、中動態です。Aさんがいくらもの思いにふけっても、夢を見ても、Aさんの外にいる人(Bさん)にはまったく影響を与えない(作用しない)から、中動態ですね。だから、能動態と中動態の対立は、内か、外かということを記述しているのであって、「誰の意思によって?」と問わないんです。
 そして、「(自然に)やる気が起こる」とか、「(自然に)惚れる」とか、「夢を見る」とか、「もの思いにふける」というのは、他の人に影響を与える訳でもなく、いずれも自分の中で完結してしまう話ですね。こういうのが、中動態という言葉で表すものなんですね。現在の言語体系としては、自動詞で表すものばっかりですね(『中動態の世界』の中でも、中動態と自動詞の密接な関係が示されています)。そう考えると、現代では言語体系としては中動態というものは残っていませんが、自動詞という形で残っているところが沢山ありますね。そして、能動でも受動でもない現象を、中動態という言葉としては表されていないですが、現在の世の中でも中動態的な現象というのは沢山あるはずです。
 ここまで考えていくと、私はこの中動態という言葉は、私が普段行っている心理療法(セラピー)で起こることを説明するのに、非常に有用な言葉だと思えてきます。でも、これを考え始めると、止まらなくなりそうなので、この辺で、もうおしまいにします。

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 …あんなに「エッセイを書く気が起きない…」と言っていたのに、気づいたら、自ずと書き終わっていました。気づいたら、「やる気になっていた」というのは、中動態的かもしれません。では、次の先生にバトンタッチします。

引用文献:
國分功一郎(2017)『中動態の世界 意思と責任の考古学』(シリーズ ケアをひらく)医学書院


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