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【日記】「できるようになりたい」と思い続けること

 
 小説をはじめてちゃんと書いたのは、大学4年生のときだ。
 当時私は天狼院書店にインターン生として入ったばかりで、店主の三浦さんに、「小説を書いてみたらどうか」と提案してもらった。書くのが楽しい楽しいと、ブログを書きまくっていた私に、小説もやってみたらいいかもよと、一つ新しい道を示してくれたのだ。
 まさか小説なんて、と私は思った。幼いころ、見様見真似で物語を書いたことは何度かある。けれど、書き上げたことはない。序盤の設定だけわーっと考えて、だいたい途中で飽きて終わりだ。自分にできるとは到底思えなかった。でも、とりあえずやってみようと思った。大学4年生で暇だった。それに、なんだかおもしろそうだし。
 結果、はじめて書いた(書き上げた)小説は学生のものとは思えないほどすばらしい作品になり——と言えたならよかったのだが、そうとんとん拍子にすすむわけもなかった。自分の体験をもとに書いてみたはいいものの、どうすれば「物語」らしくなるのか、エッセイとのちがいは何か、キャラクターをどうやってふくらませればいいのか、てんでわからなかったのだ。結局わけのわからぬまま、えいやっと無理やり終わらせた。読み返しても、何が言いたいのかさっぱりな仕上がりだった。
 悔しかった。もっとうまく、するっと書けると思っていた。キーボードに指を置けば、キャラクターたちが勝手に動き出しはじめ、自分の言葉を語り出し——といったことが起こるかもしれないという淡い期待はあっというまに消え去り、「小説を書くのは難しい」というじりっとした苦さが、舌の上に残り続けることになった。
 ただ同時に、「できるようになりたい」という強烈な欲求が、そこで植え付けられることになった。それは、「できなかったこと」への悔しさ、劣等感、負けず嫌い精神、というよりも、こう、なんと言えばいいのだろう——「できるようになったら、ものすごく楽しい気がする」という、わずかな直感の矢ようなものだった。
 だって、楽しかったのだ。小説を書くのは。うまく書けなかった、言いたいことを言い切れなかった、わけのわからないまま最後まで突っ走ってしまった。その状態でさえ、こんなにも楽しいのだから、もっとうまく書けるようになったら、どんなにか楽しいだろうと思った。
 自分の書いた小説をもっと読んでみたい、と思うようになった。物語を書いた自分がどうなるのか、物語を書くことで、自分にどんな変化が起こるのか体験してみたい。
「いつかできるようになりたい」と思いながら、やっては挫折し、やっては挫折しを繰り返し。ようやく書き上がったのは、10年後だった。
 そう、今だ。
「できるようになった」とは、とてもじゃないが、自信を持っては言えない。刊行したあとでも、何度も「あそこはこう書くべきだったのではないか」と思うし、「もっといい表現が思いついていれば」と悔やむことも毎日のようにある。
 けれど、今書けるものをちゃんと外に出せた、という実感はあった。それから、自分の中の何かが書き変わったような感覚も。
 
「小説を書けるようになりたい」「書けるようになった先の楽しさを、おもしろさを味わってみたい」という憧れは、ますます大きなものになった。小説を書くというのは、人生のさまざまな感情を、同時に味わえるということなのだ。自分とはまったく違う人生を歩んできた人の感情。憧れていた先輩や上司、友達、家族、恋人。書くことで、たくさんの人の感情を追体験することができる。それはあくまで架空の世界での出来事だけれど、書いているうちに、本当に自分が体験したみたいな気持ちになってくるのだった。
 もっといろいろな人の感情を知りたい、と私は思う。みんなが何を考えているのか知りたい。どんな価値観で生きているのか知りたい。たくさんの世界を見たい。もっとたくさんの物語を書けるようになったら、それは実現できるのだろうか。

「できるようになりたい」と、思い続けてきてよかった。向いてないかもしれないとか、どうせ時間の無駄だとか、そんな考えが何度もよぎった。でもやっぱり、「できるようになったら、楽しいだろうなあ」っていう気持ちって、何気ない毎日に、ちょっとずつちょっとずつ、栄養を与えてくれるんじゃないかと思うんだ。
 もっといろんなことをできるようになりたいな。そこにはどんな景色があるんだろう。それを実現できたら、自分はどんな気持ちになるんだろう。
 








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