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救われたい!

 昨日、本を愛するかたがたとお話しさせていただいた。贅沢な時間だった。

 その会話のなかで出てきたのが、

「人の悩みは何千年も前からほとんど変わっていない」

 というもの。

 ふむ、確かに。

 紀元前一世紀から二世紀あたりの哲学者エピクテトス先生へのお悩み相談も、現代社会で通用するものだったな。

『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』にあったあった。ちなみに、本書は基本的に著者である山本先生と吉川さんの対談方式。

「悩みを解決したいのに、難解な専門用語の羅列で逆に悩みが増えたわ!」という私のような人間をお二人がサポートしてくださる感覚で読める。

 ありがたやー。

(われわれは)もし総督を見るなら「幸福な人」といい、追放された者を見るならば、「可哀そうな人」というのだ。また、貧しい人を見るならば、「哀れな人、彼は食う術がないのだ」という。(中略)
山本 われわれが現に目にしているのは、あくまで総督であり、追放者であり、貧しい人だよね。
吉川 ああ、なるほど。それなのに、われわれは彼らに対して、幸せどうだとかかわいそうだとか哀れだとかいう心像を勝手に貼りつけている、と。
山本 そう。実際のところどうなのか、分からないのにね。

『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』
山本貴光  吉川浩満 著

 人を見て勝手に「幸せそうでうらやましい」と思ってしまうことはある。そして突然、自分が惨めになることも。なんでみんなみたいになれないんだろう、自分には届かない世界なのかな、と急に照明が落ちるように自分の心も暗くなっていく。

 ただ、不幸そうな人をみて「人の不幸は蜜の味」とか「いい気味」と思うことはない。嫌いな相手でも。この言葉を頭の中で連想するだけで、突然重力がバグったように体が重くなる。言葉の悪意と粘着力があまりに強すぎて、自分の世界には置いておけないのだ。この感覚がなくなった時、それは黒くねばつく塊の中に自分はいるのだろう。怖い言葉だ。

 そうそう、言葉には力がある。

 ずっしりと重くなった体を解放するための言葉もちゃんとあるのだ。

山本 徳は学べる、学べば身につけられるということ。
吉川 裏返していえば、学ばなければ有徳な人にはなれないということでもあるけれど。
山本 ストア派の学頭たちもこう言っている。
また、それが──というのは、徳のことであるが──教えられうるものだということについては、クリュシッポスも『(究極)目的について』第一巻のなかで述べているし、またクレアンテスも、そしてポセイドニオスは『哲学のすすめ』のなかで、さらにはヘカトンも述べていることである。そして徳が教えられうるものだということは、劣悪な人たちが善い人間になっているという事実から明らかである。
吉川 もし、徳のありなしが生まれつき決まっていたとしたら、モチヴェーションもダダ下がりだよね。
山本 学ぼうが学ぶまいが関係ないわけだから。
吉川 徳というのは、神に選ばれし者だけのものではないと。
山本 誰にでもチャンスはあるというわけだ。

『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』
山本貴光 吉川浩満 著

 ああ、ほっとする。生まれながらの才能とか容姿とかひとまずぬきにして、学ぶことが大事よね。そうだ、自分の劣悪な部分ばかりに気を取られていないで、よくなる方法を学ばなくては。

 私はこうして日々書籍に救われる。

 読書ってええなぁ。


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