見出し画像

『なぜヴィーガンか?』(晶文社)ピーター・シンガー著

 ヴィーガン、その言葉を聞いて、あなたは何を連想するだろう。

・動物虐待を訴え、過激な反対運動を扇動する人
・ある特定の宗教を信奉する人
・おいしいお肉を食べられない、かわいそうな人
・食の話をさせたくない人、または食事の場に呼びたくない人
・ダイエットに励んでいる人

 こんなことが思い浮かぶのだろうか。

 では、質問を変えてみよう。

 食べものに興味があり、自分が食べているものの経緯を調べ、調べた範囲でこれなら食べたいと思ったものを購入している、そんな人をあなたはどう思うだろう。

 最低だ! 面倒くさいやつだ!

 そんなふうに思う人は、おそらく本書『なぜヴィーガンか?』を読むのには向いていない。

 だが、食べものに興味はあるし、自分が口にするものについて知りたい、そう思ったのなら、ぜひ手にとってみてほしい。

 ただ、自分が食べているものがいったい何なのか、知りたいけど怖い、という人もいるだろう。何も知らずに美味しく楽しく食事をしたいという人もいる。

 食欲が失われるほどの何かがあることはわかっていても、実際に食欲が減退するなら、何も知らないでいることは正しいように思えるかもしれない。 

 しかし、『いのちの食べかた』(森達也 著/角川文庫)の言葉を借りるなら

……知らなくても構わない? まあ確かに知ったところで、肉の味が変わるわけじゃない。むしろ繊細すぎる人は、一時的に食欲が減退するかもしれない。(…)人は愚かだと昔からよく言われていたけれど、知っていることを間違えるほど愚かじゃないはずだ。知らないから人は間違う。知る気になれば知れるのに、知ろうとしないこともある。

『いのちの食べかた』森 達也 著

 知らない、見たくないものには蓋をする、すると安全だ──本当に?

 私はそう思えなかった。そして、自分がとても特別な人間とも思えなくて、生きている間に消費し続ける尊い命について調べてみたいと思った。

 今回紹介したい書籍『なぜヴィーガンか?』の著者であるピーター・シンガーは、消費される尊い命について、私なんかよりももっと詳しく知りたいと思ったようだ。彼がベジタリアンになったのは、大学院生のときだった。

 そうそう、本書を紹介する前にちょっと失礼。

 ここで一つ告白しなければならないことがある。

 私は、ヴィーガンではない。

 人にヴィーガン本をすすめようとしておきながら、お前ちゃうんかい!!

 と、つっこまれそうだ。
 
 急いで言葉を付け加えよう。

 私はヴィーガンではないが、フレキシタリアンだ。

 フレキシタリアンとは、基本的には植物由来の食品が中心だが、ときには動物由来の食品も摂取する人たちのことを指す。

 ちなみに、二週間ほど前、フルーティーな美酒で有名な八戸酒造さんのお祭りに参加し、約半年ぶりにウインナー(加工肉)や魚肉練り製品を口にした。

 いやあ、おいしかった。

 おいしかったが、すぐにまた食べたいとは思わなかった。当分食べたくないとまで思った。さらには、食べる機会がなければ、このまま食べないままでもいい。

 とはいえ、食べたことは紛れもない事実である。

 えー、それってなんだか中途半端で都合のいい立ち位置だな、とこれまたつっこみがきそうだ。

 ま、そうだよ。認めるよ。私は中途半端だよ。

 ただ!

 本書の訳者解説にもあるが、肉を食べるか、食べないかの二択だけでなく、中間の人たちがいてもいいじゃないか、と思っている。いや、むしろ、この中間の人たちが増えるだけで、肉の大量消費が抑えられ、工場式畜産を減らせるかもしれない。

 そんなお前の甘っちょろい意見なんて聞きたくないわ。ときどき肉を食べるくらいなら、毎日肉を食べたっていいだろ。お前一人の微微たる努力なんて無駄だ。工場式畜産万歳、肉をもっとよこせ! とまで言われないにしても、冷ややかな視線は感じるぞ。

 完全なるヴィーガンしか認めない(だからヴィーガンにはならない)、たった一人のささやかな努力の結果は目に見えない無駄なもの。そう思った人は、ぜひとも本書をおすすめしたい。

 え? 否定されてるのに、すすめるの?

 なんでなん? 

 なぜって? なぜなら著者のピーターさんも

ここで一つ、告白しよう。驚かれるかもしれないが、正確にいえば、私は本当はヴィーガンではないし、ベジタリアンですらない。

 ええええーー!?
 と驚いたのは、私だけではないはず。

 ピーターさん、ヴィーガンちゃうん?
 脳がバグりそうだが、ピーターさんの言葉の続きを読んでみよう。

それはなぜか。これにはいくつかの理由がある。

 そう、彼が完全なヴィーガンではない理由がある。

 ってか、そもそもなんだが、ヴィーガンの正しい定義がとても難しい。

 動物由来の食品を一切摂取しない人をヴィーガンと呼ぶのだが、ヴィーガンのなかにも、食品だけでなく衣服や家具なども一切動物性のものを使用しない人もいれば、化粧品や医薬品など動物実験が行われているものも含む人、さらには、植物でもニンジンなどの個体そのものを搾取してしまうものは避けるべきだという人もいる。つまり、豆をはじめ、ジャガイモやトマトなど全てを刈り取らずに一部おすそわけしてもらうならいい、という人たちだ。

 こ、これは、かなりのハードモードだ(汗)

 そんなわけで、ヴィーガンだけでもかなり複雑だが、さらに私のようなフレキシタリアンから、動物性は避けるが乳製品は口にするラクト・ベジタリアンなんて人たちもいる。

 ここで、なんだよ、はっきりしないなと思わないで欲しい。

 私は、肉を食べるか、食べないかだけを求めているわけではない。工場式畜産が減っていく方向に進んでくれたらいいと思っているが、それはある日突然全ての家畜が解放されないのと同じく、自分の体や精神もゆっくりと時間をかけて肉食を減らしていくのが望ましいと思っている。

 もちろん、私なんかがこんな説明をしたところで、やっぱり食べるか食べないの二択しか認めない人や、興味はあるがヴィーガンは周囲から異質なものとして見られるのではないかと踏み込めない人へ何一つ思いは届かないだろう。

 だからこそ、『なぜヴィーガンなのか?』を読んでほしい。本書は、ヴィーガンに関する書籍にしては家畜の劣悪な環境に関する内容が薄い。つまり、入門書としてはかなり読みやすい内容になっている。食欲が減退するほどの内容を列挙する代わりに、あまりにも蓋をすることに慣れきっていた頭を刺激される言葉を選んでくれている、比較的ライトな書だ。

私たちは通常、「動物(animal)」という言葉を用いて「人間以外の動物」を意味する。(…)一般的には、「動物」という語によって牡蠣とチンパンジーほど大きく異なった生物がひとくくりにされる一方で、チンパンジーと人間の間には明確な境界線が引かれている。だが、私たち人間とこれらの[チンパンジーを含む]類人猿は、牡蠣と類人猿に比べればはるかに近縁なのだ。

 私は、フレキシタリアンになる以前は、魚介類も豚も鶏も牛も、実験用の動物たちも、すべてひとくくりに「知りたくないものには蓋をする動物」としていた。そこに、違いなど、境界線などなく、なんだったら、穀物との境界線もあやふやだった。私ほどではないにしても、深く考えることを避けている人はいるのではないだろうか。

 それから、これは私も言われたことがあるのだけど

「あんた一人が肉を食べるのをやめたところでなんになるの? 無意味だよね。たった一人で頑張ったところで無駄だよ」

と、ヴィーガンや動物倫理について学ぼうとする人にこういった言葉を浴びせてくる人がいる。

 この言葉にピーターは、農民と盗賊の例え話を用いて、実に軽快に反論する。私は、「無駄」と言ってくる人たちに随分と慣れたつもりだが、それでもやはり心が折れそうになることはある。だが、この農民と盗賊の話を読んで、それこそまさに膝を打った。この例え話は、ヴィーガンだけでなく、他のあらゆることに挑戦する人にも「些細なこと」の大きさを教えてくれる内容だと思うので、ぜひ読んで欲しい。

 さてさて。

 今夜は熱く語ってしまった。

 そろそろ晩酌の時間にしようかな。

 酒のあてはなにがいいだろう。

 植物性のものでも、動物性のものでも、口にすることを恐る必要はない。きちんと知って、命に感謝し、未来の動植物たちのために、少し自分が我慢できることを考えてみる。まずは、ここからはじめようじゃないか。

 

 


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?