考えないために走る

白、赤、青、さまざまな色の屋根や車が、茶色い濁流にのまれる映像が、面前の大きな画面に映し出されている。そしてその数日後には、テーブル脇の小さな画面のまたその先にぼんやりと映し出された原子力発電所の建屋が、白い煙を吐き出していた。私たち家族が住む東京から北にわずか200km離れた原発だ。
それから、ちょうど49日後、東京から西に250km離れた北信州に妻と3歳9ヶ月の娘を伴った自分は、はじめて滞在する村営ホテルの部屋から、縁あって自分だけが見慣れたゲレンデを見つめていた。
山菜を探しているのか、犬の散歩なのか、遠くに白い人影が動いている。東京で連日繰り返される被害報告と次第に明らかになる原発事故状況の報道と切り離された風景がそこにあった。北信州の季節外れのゲレンデ脇に立つリゾートマンションの内見をしながら、大地震後間もないのに都心から逃げることを考えてよいのかと、自問自答を繰り返していた。

慣れない仕事から離れることを考えはじめたころでもあり、社会人大学での学びに触発された時期だった。原発について考えるトークショウを手伝ってみたが、生活環境に対する不安は消えなかった。
そして私たち家族は、北信州で過ごす時間が長くなっていく。「この子の身体の半分は長野の食べ物でできてますから」。長野で知り合いを作るきっかけの文句は、現実からの逃避に対するエクスキュースであり、子どもに対する偽りざる願いでもあった。

東北にフクシマに申し訳ないと思いながら片道3時間、車で突っ走る。当初はこの移動だけで東京の生活との断絶には充分に思えた。しかし、2拠点の生活はSNSによって東京で接続する。東京の生活に長野の北信州の人たちの様子が入り混じる。だからといって北信州では地域に馴染めるわけではなく、東京の生活を引き摺るのだ。

北信州人になり切れない自分。東京との接続を切りたい自分。そんな中途半端な2拠点生活者ができあがってしまった。
決して家族と北信州で過ごす時間に不満があったわけではない。でも、それだけでは足りなかった。

以来、北信州に赴く理由を心のどこかで探す自分。
そこに偶然現れたのが、第1回北信州ハーフマラソンだった。野沢温泉から木島平村役場前を経由して飯山へ向かう21.0925km。
ジョギングはするも、10kmも走ったことがない。自信がなかった自分はハーフマラソンではなく10km走にエントリーした。
10kmのスタート地点で、村役場のちょっとした知り合いの高木さんを探す。偶然会ったように装い挨拶をする。これだけでエントリーした目的が達成されたような気がする。談笑する間もなくスタートの号令。

以来、年3回のハーフマラソンに向き合う自分。
5月、畑の中のだらだらとしたアップダウンをただただ日焼けするためだけに走る。調整不足が簡単に露見するコースだ。自分がこの夏のハーフマラソンにどれだけ向き合えるか試されている。
7月、早朝3時起床、4時台の長野電鉄に乗り小布施の町へ。駅前を埋め尽くす8,000人の人の波と、同じ数のコース脇の応援。演奏、コーラス、太鼓、くだものや漬物、焼肉の振る舞い。住人とランナーが織り成すうねりの中に身を投じる。
9月、温泉街の朝市に包まれながら足湯で暖をとりスタート地点へ。通い慣れた風景の中を空気の中を走る。ゴール後の余韻を楽しみながら、またひとシーズン終了したのだと感慨に浸るのだ。

最初の10km走から7年、震災から9年。21.0925kmのハーフマラソンのスタートラインに立つ自分がいる。もはや東京の生活も、北信州での将来も、どうでもいい。何年か後に北信州に越してくるかもしれない、家族と過ごす時間が減り部屋を売ってしまうかもしれない。

でも、ウェアを着て、シューズを履き、ゼッケンを胸に留めて柔軟体操をしている自分は、2時間ちょっとの自分だけの時間を楽しむために、普段よりちょっとだけ深く息をしている。道中、出会う人たちに声がけをするのを楽しみにしながら。

この2時間半に満たない時間は、東京人でも北信州人でもない。

自分のためだけに、
考えないために走っている。

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