自分の正義が変わった話
はじめまして! 私はとある中高一貫校の生徒会に所属する「かわせみ」です。いわゆる「ブラック校則」というものと長年戦い、先日先生といろいろな校則について話しました。その中で思ったことをなにかに書き留めようということで、ノートを始めてみようと思います。私と同じように戦っている人たちへ、少しでも届いたら嬉しい、と言いつつも、自分の記録用みたいなところです。
※生徒会活動用のオフィシャルな感じのものではなく、活動をして思ったこと、私の感情をたらたらと書いていくつもりなので、ほぼ趣味みたいなものです
校則と正義って切り離せないねって話
いろいろ話して、話し合いが終わってからもいろいろ考えてみて、どうも私たちの正義と先生たちの正義は違いそうだぞ、というのが見えてきた。それも、どちらの言い分も分かるタイプの「双方が善」な正義な気がするのだ。
ありのままを受け入れる正義と、なりたい自分になる正義
先生と話した項目の中に、「縮毛矯正はなぜ駄目なのか?」というものがあった。正直なところ身だしなみに気を使わない私にはどうでもいいことだが、誰かにとってどうでもいいことは誰かにとっては死活問題。実際知り合いにはくせ毛がひどすぎて朝の準備に時間が取られる、という人もいたので、私はOKしても良いんじゃないかと思っていた。
先生から聞いた話では、「例えばパーマやヘアカラー、ピアスも禁止。自分の身体を変えることは駄目で、ありのままの自分を受け入れていこうよという意味があるんだよ」とのこと。私はその時点で、なんとなく違和感を覚えつつも納得してしまった。善悪の問題は別にしても、この理由は筋が通っている。ひろゆきでもあるまいし、反論するにはあまりにも苦しい。
そしてあとから後輩に聞いた話。ありのままの自分を受け入れるって正しいの? なりたい自分になっちゃだめなの? と。
整形が良いとか悪いとかそういう話にも絡んできそうだが、パーマやピアスは悪く言えば「自分の身体を改造すること」だ。一方で、良く言えば「なりたい自分になること」でもある。これらを禁止して「ありのままの自分を受け入れる」といえば良いが、それは「自分はどうせこんなもんだ」となりたい自分を諦めることと同値ではないか?
そうしていろんなことを考えて、私は悔しかったのだ。
私って先生が「ありのままの自分を受け入れるための校則だよ」って言ったことに納得したの? と。
どちらかが明らかに歪んだ正義なら良かった
例えば、タイツ禁止の校則について学校から与えられた言い分は、このnoteに書いたら私がどこの学校に在学するかバレるほど奇特で歪な意味の分からないものだ。校則の異常さをほとんどの先生が認識し、何回も抗議しているにも関わらず、上層部から得られる情報は駄目の一点張りという酷さ。しかも上層部のどこが制服を管轄するのか誰も知らないという異常。どこに在学するかバレるほど、と書いたが、むしろそうであってほしい。こんな歪な学校が特定できないほど多かったら。そこまで先が思いやられる日本ではないと信じたい。
と無駄話を挟んだが、このタイツ禁止の校則は明らかに上層部が歪んでいるのだ。私が自分の意見を信じるために十分なほど歪んでいるのだ。それぐらい歪んでいれば、私たちは自信を持って自分たちの主張を言える。大きい声で「あれってやばいよね」と話せる。でも、「ありのままを受け入れる」ことと「なりたい自分に変わること」は、相容れないだけでどちらも間違っているとは言い難い正義だと思った。
私は私が一番嫌っていた“大人”になった
ちょっと前まで、先生たちをはじめとする大人たちが言うことの一つ一つが、全部おかしいと思っていた。なににこだわっているのかを説明されても分からなかったし、分からなくて良いと思っていた。今回、「ありのままの自分を受け入れる」と説明されたことだって、ちょっと前の私ならそんなの都合のいい言い訳だろうと思ったはずだ。そんなことに自信を持てるぐらいには、大人の全部を疑って、自分の意見が正しいと思っていた。
でも近頃、先生の言い分に納得してしまうことが増えた気がする。そして、自分の中には確実に違和感があるのに、それに気付かなくなった気がする。そもそも違和感がないこともある。それが成長というものなのかもしれないが、自分の中で確実に悪だったものに近づくというのは、なんだかダサくて悔しい。
真っ直ぐな後輩たち
私の後輩は、良くも悪くも真っ直ぐで正義感が強い。いや、強すぎる。自分が正しいと思ったことは絶対貫こうとするし、そのために倒れるまで頑張ろうとする(言い過ぎに見えるかもしれないが割りかし事実である)。そして、ズルをしないで真っ向から戦おうとする。正直すごく心配である。私も同じように自分の正義を貫こうと思っていた時期はあったが、この一年ほど今まで以上に校則に関わって、私が確実に持っていたはずの正義を疑い、自分が疑っていたものに流されるようになった。それが嫌で嫌で、どうにも情けなくて、そして、かつての私と同じように真っ向から戦えばいつかきっと変わると思っている後輩たちが、今の私のようになるのは嫌だなあと漠然と思っている。今に至るまでに、散々否定されて怒られて、泣いて泣いて眠れなくて、そこそこハードにバトってきたつもりだから。でも、いつかあの子たちも変わっていかないと、こんな世界では生きていけないだろうなとも思っている。子どもの正義では、多分、きっと、あまりにも生きづらい。いや、社会で働いたことなんてないから知る由もないけど。学校が社会の縮図なら、高校の時点で中学生の正義が生きづらいんだから、大人の世界の子供の正義なんてもっと生きづらいだろうなってだけ。
結局なにが言いたかったかというと
結局何を伝えたかったって自分でもあまり分からないのだが(なんせ自分の記録用みたいなものだし)私は誰かに正義を持ち続けてほしいんだと思う。自分が悪だと思っていたものが善になるのが一番悔しい。かと言って子どもの正義を持ち続けるのは生きづらい。だから、叶わない願い事のような、言霊(?)のような記事なんだと思う。
多分、きっと、知らんけど。
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