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【随筆】「常識」の歪みについて

 私は社会というものが心底嫌いだ。文化や規模によってその価値観は変わるだろう、だが常識を求めてくる点ではどこも同じだ。常識が適応される範囲、それはあまりにも多岐にわたる。
 常識を求める人間の心理は何か、これが全く分からない。社会の成立ちに相俟って出来た認識から生まれ落ちたのが常識だろう、ある程度同じ尺度を持った人間が共有している思考のことである。社会構築主義的に考えるならば、このようになるだろう。はたまた、アインシュタインはこう述べている。
「常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」
今回の本題は常識の本質ではなく、それを他人に求める心理である。考え抜いた末に一つの仮設を立てた。
 人々は、同じ価値観や文化を有する人間かを確かめるために常識を使うのだ。他人の社会性を評価するための基準・道具としての常識があることで、社会におけるその人の立場を一部決定する。これは人間の本性の一片だろう。実際の例を挙げよう。

 とある一家が隣に引っ越してきました。早速彼らは近所に挨拶に行きました。しかし、彼らは挨拶に土産を持っていきませんでした。これに自治会長が非常識だとして、一家を注意しました。彼らは非常識な人として近所に広まり、孤立してしまいました。

 これは私の親が聞いた本当の話である。これには複数の捉え方がある。一家の地域ではもしかすると近所挨拶に土産を持っていくことはないのかもしれない。そうなると郷に入っては郷に従え、この諺の通りだと思う。だが彼らの経済状況が良くなかったなら?なれば、常識を意図せず破った者に対してその社会的地位を取り上げるのは如何なものか、と考えざるを得ないのである。
 なぜ私がこの常識という概念を憎んでいるか。述べたことをまとめると、人間をその社会性のみで測るという思考が嫌いなのである。それ以外にも評価すべき点はある筈であるのに、それを見ずに社会に適応できるかを問う、これは個々の人格を否定することにすらつながる。個々の人格を肯定するために、人格否定につながる言論を排除する…本末転倒。生憎私は否定という行動に移すほどの怒りは持ち合わせていない。ただの「私という個人の考え」として心芯に在るだけである。
 ふと自分が受けた仕打ちを思い出して腹が立ったので文章にした。後悔はしていない、むしろスッキリした。どう感じるかは、あなた次第。

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