見出し画像

神話を生きる


はじめに

久しぶりに長めの文章を数日かけて書きました。今回は、私の変成意識での体験と、地上的な出来事の、両面から見た報告書となっています。

日本書紀の一書

最近、仕事の関係で、日本書紀と古事記を少し読んでいました。日本書紀と古事記は、700年代に完成した書物ですが、そこには神代の時代のことから、歴代天皇の事績が記載されています。それらには食い違いがありますが、数百年の歴史と神話を語っているわけですので、正確に事実を継承することは不可能であり、いろいろな見解があっても何も不思議なことではないと思います。私は今のところ、全部は読んではいません。

一方で、日本書紀と古事記の大きな違いがあります。日本書紀の神話では、正式とされる本文を述べた後に、伝わっている代表的な伝承を列挙していて、たくさんの説があることを表明しているのに対し、古事記では「これが正当な神話・歴史である」というふうに、1つの説だけを語っているという違いです。さらに最初に登場する原初の神々が違うということもありますし、日本書紀の本文では、イザナミが火傷して黄泉の国に行くということはなく、イザナギとイザナミとの協力によって、円滑に日の神、月の神、スサノヲを生みます(ヒルコも生みます)。古事記などでよく知られるストーリーは、イザナミは黄泉の国に行き、イザナギと別れます。そして黄泉の国の穢れを払うことによって、イザナギがアマテラス、ツクヨミ、スサノヲを生み出します。

これまで私は、古事記の原初の神々である、アメノミナカヌシ、タカヒムスヒ、カミムスヒに接触し(報告済)、日本書紀の原初の神であるクニノトコタチノミコトにも接触してきました。そのほかにも、日本の神話に出てくる神々にいくらか接触してきました。そして先日、ちょっと面白い体験をしました。それは、日本書紀の本文ではなく、一説(ある書に曰く)に出てくる神を呼んだのです。その一説は、原初の神々の部分の第2の一説でこのような文です。

<第2>一書に曰く。国常立尊(クニノトコタチノミコト)、天鏡尊(アメノカガミノミコト)を生みたまふ。天鏡尊、天万尊(アメノヨロズノミコト)を生みたまふ。天万尊、沫蕩尊(アワナギノミコト)を生みたまふ。沫蕩尊、伊弉諾尊(イザナギノミコト)を生みたまふ(後略)

私は上記の神々のうち、天鏡尊と天万尊への接触をしました。沫蕩尊にはまだ接触しておらず、国常立尊と伊弉諾尊には、違う時期に(おそらく違う文脈で)接触しています。まずはこの天鏡尊と天万尊の接触レポートをします。

・2024年6月9日 天鏡尊
フォーカス10の状態で、足裏を押されるタイプの快感を覚えていた。割に長い時間。その後、下半身が何者かと結合しているような感覚があった。あるいは強固なエネルギーに包まれているような感じ。今までにない充足感がある。その相手が人なのかどうかよく分からない。しかし次第に人型になっていったような感じがあった。
大きめの部屋にいた。ほの暗い。なぜか急に思いつき、「辺津鏡(へつかがみ)」を呼んだ。自動運動が始まって、空中で横になり、そのまま部屋の壁にそって旋回運動する感じ。すぐにフェイドアウトした。
また大きめの部屋にいた。何を呼んでいいのか分からないので、思いついた「天鏡尊」を呼んだ。直立で自転スピン。時計回り。やがて回転が大きくなっていき、内側を見た茶碗のような型の回転。さらに背中側に倒れていき、地面に対して水平な状態で時計の回転。しばらく時計の回転をすると、また閉じていき、茶碗回転、しばらくしてさらに閉じて自転回転。つまり最初の回転に戻っていったという流れだった。
また大きな部屋にいた。窓から外を見ると、雄大な海が見えた。外に飛び出し空を飛んでいると、道路に一人の中年女性が歩いていた。紫色の服を着ていた。(後略)

・2024年6月10日 天万尊
実家2Fの玄関側。中央の部屋に行くと、階段のところだけ明かりがついていた。引き返して玄関側から外に出ようとすると、何かの力で後方にふっとばされた。そこで神を呼ぶことを思い出し、「天万尊(アメノヨロズノミコト)」を呼んだ。
次の経験のために記憶はぼやけてしまったのだが、おそらく、直立したまま浮遊し、中央を見る感じで公転運動をしたと思われる。すると両脚裏に押されるタイプの快感が走り始めた。いつもの感じだが、やや好みではないと感じた。この両脚裏への快感は長く続いた。
さらに風のような振動の筒が足元から上がってきて、私の全身を覆っていた。つまり頭の上方まで昇っていった。全身がしびれるような感じになった。(この振動が体の外ではなく、内部まで貫いてほしいと感じていた)
さらに左側の下のほうから、機械音のような声が何かいっているのが聞こえたが、何を言っているのかは認識することができなかった。何かせっぱつまったというか、急いでいるようであった。
そのままフェイドアウトすると、自室のベッドの上にいた。なおも両脚裏への圧されるタイプの快感は続いていて、まあまあの時間継続した。感覚では肉体次元だったが、どうやらフォーカス10での体験のようだった。肉体に戻っても、快感の余韻が残っていた。
再入眠した。オーストラリアに妻と旅行に来たような感じ。美しい港に船がたくさんあった。妻はニコニコしていた。いつの間にか妻がいなくなって、一人で探索していると、実家の隣の地区にあるゆるやかなカーブのところにやってきた。(後略)

天鏡尊のダンスは、天からの振動を広げて、それをまとめてまた閉じるという印象の動きでした。最初の直立でスピンというのが、国常立尊に該当し、それを展開して、またもとに戻すということかと思いました。国尊立尊のロゴスを展開し、そして反射し、それをフィードバックしているように感じました。
天万尊は、中央を見たまま公転ということだったので、国常立尊の本質を、円状に展開してバラエティーある世界にしたというふうに思えます。円の中心と円周の関係ということです。
このように考えると、天鏡尊は必要なのか?と思われますが、一挙に国常立尊から天万尊に至ることはできず、その仲介が必要なのだろうと思われます。中心から円周へ、円周から中心へという役割がなければ、すべてがバラバラになってしまいそうですし、そもそも中心を展開するという働きがなければ、何も生み出せないように思われます。
円周に当たる神の名前が「天万尊」、ヨロズということなのですから、ロゴス(本質)から発生するバラエティー(質量)としてのハタラキをよく表しているように見えます。円を描くわけですので、それらは調和しているということになります。12サインやサビアンシンボル、アカシックレコードのようなものとして考えることができると思います。
つまり、国常立尊は本質、天鏡尊は本質の展開と反射、天万尊は展開されることによって生まれた質量のバラエティーとその調和をつかさどっている存在ということではないかと思われました。

今回、面白みを感じたのは、マイナーな説の神々にも接触できる=それらは存在するということを、体験できたということと、空中ダンスの在り方も、象徴的にフィット感があったということです。日本書紀で語られる諸説は、どれが本当ということではなく、どれも本当というふうに、まずは考えることができると思います。
天武天皇・持統天皇の御世あたりで、強大な唐の国に対抗するために、日本をまとめようという働きが強くなったという歴史があるらしいので、それまでは、それぞれの地域で、それぞれの神々を祀っているのが通常であり、それらに関連性を無理やりに持たせる必要はなかったのだろうと思われます。それぞれの世界の創造、神代の世界、祖先の神々の物語があって、それぞれが真実だったのだろうと思うのです。中には似通ったのもあれば、全然毛色の違うのもあったでしょう。
繰り返しになりますが、日本書紀が説をなるべく残そうとしたことに感動しますし、古事記がそんななかで1つのストーリーを主張したということには、国をまとめて守るという強い意志があったのだろうと想像します。

霊や魂は、進化(変化)していく肉体を乗り物にする

体外離脱や明晰夢を繰り返していますと、物質を超えた世界が確実に存在することを体感的に理解します。肉体がなくても自我は継続し、エネルギーボディーによって存在を確認できます。肉体なしに存在できる、あるいは物質を超えた世界が存在するということを認めたとき、物理法則に対する見方や歴史や時間に対する捉え方が一挙に変容することになります。
例えば、魂や霊が肉体以前に存在しているとした場合、進化論だけで生命について説明することはできなくなります。今では、進化の先に意識があると思われがちですが、肉体の進化以前から意識があったならば、進化(あるいは変化)しているのは物質的側面・肉体であり、魂や霊はそこに乗っかっているだけに見えてきます。
エーテル界やアストラル界は、光速よりも早く動く舞台であるのだし、時間を超えていく性質もあるわけなので、単に肉体にのっかっていくというだけではなく、降りる時代を選択するということすら可能に思えます。
ひとたび受肉すると、その重しがのしかかり、身動きが非常に取りにくくなってしまうのですが、肉体という重しがないならば、そういうことは簡単にできてしまうということになります。そうすると、神話的現実というものは、肉体や物質性、あるいは歴史や時代を超越して存在しており、その縮小されたもの、言わば「たとえ話」のようなものが、肉体や物質的世界で展開されるという見方に変化します。これはコペルニクス的転回のような視点の変化です。
そして神話、あるいはその背後にあるロゴスは、星の数ほどあるわけなので、「真実は1つではない」ということになります。現代では、「物質的に証明できるもののみを真実とみなす」という超単一的見方に陥っています。真実は1つであると考えるのです。仮に神話が真実だとしても、唯一正しい神話があるはずだというふうに判断してしまうことになりそうです。この分裂の果てにまできた生存形態は、神話的世界というものを認めないし、物質性に閉じ込められた孤独感や行き詰まり感を強く覚えることになります。毛細血管だけが真実であり、心臓につながっている動脈や静脈は存在していないと思い込んでいるようなものです。小さな円をいつまでも回り続け、自分がもっと大きな円に所属していることを忘れてしまうという状態です。小さな円から解放され、より大きな円に戻るということは、神話的現実を思い出し、その大きなエネルギーのうねりの中で生存するということだと思います。
そして、その神話的現実というのは1種類ではなく、たくさんの種類があり、自分にフィットしたもの、自分のルーツであるものが存在するということだと思われます。そして人によっては、1つの神話を生きるのではなく、複数の神話を同時に生きるということもありうると思います。

神話的現実が物質的現実を自らの表現のための素材にする

あまり詳しいことはここでは語れないのですが、先日、ある島に行ってきました。あまり地上では旅行に行かない私としては、とても遠く感じる場所です。この島には古代の別名があり、それは記紀にも記載されています。少し端折りますが、その古代に呼ばれた名前の経緯として、すべての日本神話のルーツが、その島にあったという見立てがそこにあるそうです。
私はその神話と共に生きている方々と旅をして、奇跡とでも言えるような体験をそこでさせていただきました。その方々はたいへんパワフルで、神様とつながっていることを生々しく表現していました。その神話は今でも息づいているようだと感じました。
このような体験をどのようにとらえればよいでしょうか?奇跡を見て、鳥肌の立つような体験をし、そこに真実があるのを感じました。しかしその一方で、その神話だけが真実性があるというふうにとらえず、どの神話にも真実性があるとみなすのが適切なとらえ方だと思います。
歴史学的に、文献学的に、調査を繰り返し、どの神話がどのような経緯で生まれ、どの神話からどのような神話が派生し、どの神話に妥当性があるのかなどを、いくら調べても到達できないであろう世界があります。(もちろん歴史学や文献学を極めてくという道も存在すると思うので、絶対ということではないのですが)それよりも、自分が所属している神話的現実を思い出し、そこにつながり、それを表現していくということによって、本来の神話の意味が成就されるということだと思われます。地上的なあらゆる状況、歴史的な経緯、物質的側面は、今、それを表現するための材料にすぎないということになります。

1つの神話のみを正しいとみなすのは、物質主義的な見方に肩入れしてしまっていることも大きな原因だと思われます。古事記は一神教的立場ではなく、様々な神々を家族のような関係に見立てているというところは優れた神話的世界観に思えます。一方で、古事記だけを正当とするのは、どこかあやうさを感じます。古事記と日本書紀は、補完しあう関係に思えます。もちろん、日本には記紀以外の神話がありますし、地球上にはもっと多数の神話があり、すべて同じようなことが言えると思います。
また、神話的世界を表現するのではなく、神話以前のロゴスを表現するというやり方もあると思います。それは同系の神話を束ねるような立場になるでしょうし、特定の神話というローカルなものが脱色されたような表現になると思われます。

その島で私は、あたかもどこかからやってきた感動に飲み込まれるとでもいうような体験をしました。自分でもなぜ感動しているのか分からないという状態でした。誰かの感動を、自分を通して体験しているというふうな。私はもっとこのような体験をしたいと思いました。そして同時進行的に、様々な神話がこの世界で展開されているだろうと予感しました。私はそれをいろいろと覗いてみたいです。現代版の様々な「ある書に曰く」の表現を、生々しく体験したいと思いました。

神話劇や祭祀によって大きなエネルギーにつながる

若いころ、カバラと魔術について書かれた本を読んだことがあります。そのころはまだ、精神世界に興味を持ち始めたばかりで、体験的なことはほとんどありませんでした。うろ覚えなのですが、その本には、エジプトの神々を演じる劇をすることによって、神と共鳴し、大きなエネルギーにつながるみたいなメソッドが紹介されていました。これを読んだ当時は、そんなことはありえないと思いましたし、仮にありえたとしても、何かが犠牲になると思ったのでした。犠牲になる何かというのは、個体としての自由性のようなもの、そこからくる多様性のある世界といったものです。
今になって考えてみると、あのメソッドは優れた方法に思えます。小さく閉じてしまった個体としての自分を、より大きな存在のエネルギーの中に開放して、本来の姿に戻ることに効果があるだろうからです。先ほどのたとえで言うと、毛細血管が、動脈や静脈や心臓につながることによって、本来の立ち位置や全体性を取り戻すということです。
考えてみると、神道における祭祀や御祈祷のスタイルも、その神話劇と同じことをしていると思われます。鏡や剣などで装飾し、お供えをし、祝詞を奏上し、お神楽をあげて、御扉の向こうの神様に呼びかける様子は、天の岩戸神話を再現しています。つまり同じように、神話を再現することによって神々とつながり、大きなエネルギーのなかに開放されるというメソッドです。
一度、その大きなエネルギーの中に自分を解放することを覚えてしまうと、それを追い求めるようになるのが普通だと思われます。肉体と言う狭い場所に閉じ込められたままでは、息苦しいからです。そのような息苦しさは、たいていストレスと呼ばれ、よくありがちな方法として、アルコールやギャンブルなどで緩和することが行われています。そしてそのサイクルが過剰になってくると、生活は単なる快と不快の繰り返しのような単調なものに感じられるようになります。
健康的にそこから解放される方法もあります。それはクリエイティブな活動をすることであり、専門家的悟りと呼ばれる状態を経験することです。振動でいうとH24を増やしていくということです。快と不快の繰り返しは「月」に該当し、H96の振動ということですから、H24の振動のエサになり、低いエネルギーの振動が上昇します。

神話劇や祭祀というのは、神のエネルギーに接触することですので、振動で言うとH12への接触の試みということになろうかと思います。話を戻しますと、神話的現実のほうに真実を見出した場合、地上的現実は、それを表現するための素材になるわけです。
神話的現実を見出す前には、地上的な様々な事象が真実であるように感じてしまうので、変化していくことを恐れたり、小さなことでクヨクヨ悩んだり、時には絶望を感じてしまうことも発生してきます。肉体的に閉じ込められた個体という視点では、どうしようもない問題が発生してしまう世界に見えてしまうのです。例の島で出会った方々は、神話的エネルギーのうねりの中に生きているように見えました。様々な地上的問題が発生しても、どうにかなるさという明るさをいつもキープしているように見えました。それは「そう思いたい」というような態度ではなく、大きなエネルギーと共に生きているので、自然にそうなってしまうのだろうと思われました。

神話を生きる

神話的現実を生きると言っても、神話をそのままなぞらえたような行動をとるわけではないと思います。今回の島の旅では、神様の声が聞こえる女性(Sさん)がおり、その声にしたがって物事が展開していくのを目の当たりにし、経験しました。Sさんは祭祀が始まると神懸かりし、体がかってに踊りだします。それは美しい踊りといったものではなく、荒々しく舞うといった様子です。それら経験したことは、神話の型通りの筋のようなものがなく、割に直感的なものにさえ見えました。ロゴスや神話元型からの創造は、型通りのものを繰り返して生産するのではなく、常におもしろいものを表現しようという力に満ちているのだと思われます。
特定の神様や神話を選ぶということは、自らの振動を上げたり、あるいは下降タイプの存在形態であり続けたりするための、有用なメソッドの1つであると思います。神様や神話というものは、もちろん宇宙から見れば、地球あるいは太陽系というローカルな場でのものになりますが、その背後にはロゴスがあるのであって、そこに行きつくための力強い懸け橋になると思います。もし神様が幻だというならば、我々の個体も幻ということになります。宇宙のあらゆるものが幻だということもできます。しかしそれは逆に、すべてのものは幻ではないということもできることになります。結局、幻なのか、幻でないのかというのは、言葉遊びにすぎないように思えます。
我々がここに存在していることに真実を見出しているように、神話的現実が確かに存在していることを見出すことによって、雄大で力強い世界観のなかに生きられるようになると思います。すでに書きましたように、世界で唯一の神話というものはなく、比較すれば矛盾したように見えるものがたくさんありますが、それらの矛盾に意味はありません。神話を生きる上で地上的な証明や説明にはあまり意味がありません。
だからこそ、そのような取り組みによって、肉体がなくなった後でも継続する意識や意図通りに動かせるエネルギーボディーが存在するための準備ができると思われます。肉体や物質に依存しない生存状態に慣れていくからです。肉体や物質以前に霊や魂が存在するとしても、自分を肉体的物質的存在にすぎないと思い込んでいればいるほどに、ほぼ自動的に地球での輪廻のコースに戻される可能性が高くなると思われます。

双子座22度「田舎踊り」の共鳴

少し話題を変えまして、ヘリオセントリックで見る生前日蝕図のことを語りたいと思います。
松村先生の動画でも紹介していただいたように、私の生前日蝕の地球ポイントは、双子座22度の「田舎の踊り」です。私はこれを、体脱中に経験している空中ダンスだと見立てました。私の探索は睡眠中に行いますが、そろそろ日中でも変成意識体験をできるようにしたいと思っていました。松村先生から、この空中ダンスのメソッドを、起きている時間にやってみるのはどうかと提案していただきました。
一方で、私がずっと気になっていたのは、上記で紹介しました、神様の声が聞こえて、祭祀が始まると踊りだす女性です。彼女がやっていることは、まさに双子座22度の田舎の踊りです。神様がとりつき、ドタバタ舞います。
彼女は突然神様の声が聞こえてきて、たくさんの指示をうけ、それを純朴に実行しています。普通、それは無理ではないか?と思われる指示も、なぜか奇跡的なことが連続して実現できるそうです。今回の旅で、その一端を見せていただきました。今回の旅は、「『やっと準備が整ったので、その島まであなたを連れて行くように』という指示があったので、よろしくお願いします」ということで、つれていってもらいました。
彼女と、彼女に指示を出す神様は、私と私が奉職している神社との出会いが、進行している計画のすべての始まりだったと説明してくれました。彼女の活動の大きなテーマは、日本全国の神社、あるいは海外の寺に、鏡や銅鐸などを奉納するということになっているようです。そのことによって、日本、あるいは地球のエネルギーの流れを調整しているみたいなことを説明してくれました。
私は彼女に出会って話を聞いた時、私の空中ダンスと彼女の神懸かりの舞は、関連しているのではないかと思いました。私は空中で踊り、彼女は地上で舞います。この共鳴によって、H6の創造のエネルギーを、地上にもたらしているのではないかと思われたのです。
報告済ですが、変成意識の中で「あなたのおかげで、私たちが準備したものを、土の領域にまで下すことができした」と、掛け軸を見せられながら説明を受けたことがあります。私がそのことを伝えたとき、彼女は「その通りだと思います」と言いました。
ヘリオセントリック図もそうですが、生前日蝕図もまた集団的な図です。私個人のことを示しているのではありません。よって、生前月蝕図も含めてですが、これらが示している内容を、集団で実行するということが、自然な在り方に思われます。
ちなみに私のヘリオセントリックの金星は山羊座28度で、体脱の先で、接触する恒星や神々がバラエティー豊かで、どんどん散らばっていく傾向があります。彼女の鏡や銅鐸を奉納する活動も、神様の指示によって突然旅が始まり、どこに行くのかはその時でないと分からないようです。これも、養鶏場の鳥が、あちこちに飛んでいくのを、異世界でするのか、地上でするのかの違いがあるだけで、共鳴的に事が進行しているように思われます。

アンタレスの通路は複数の部屋にまたがる

もちろん、日蝕図の双子座22度にしても、ヘリオセントリックの山羊座28度にしても、上記の内容を以てすべてと見なすということではないと思われます。もっといろいろな表現がなされると思います。私は、空中ダンスによって、日中に別地球に移動することをあきらめたわけでもありません。
私が例の島に行ったとき、最も重要なプロジェクトを実行する前に、絶対に連れていくべき場所があると言われ、先にそちらに行きました。それは猿田彦神に関係するとも言われる場所でした。私はアンタレスとの関係が深いと思いますので、猿田彦神はアンタレスとみなすことができますから、その関連だろうと思われました。
ずっと前(恒星快感道を始めたころ)、アンタレスを呼んだ時、それはいつものように実家の2Fの部屋でしたが、ないはずの部屋が増えて、3個か4個の部屋をまたいで回転ダンスするというのを体験しました。大きな部屋が1つ+小さな部屋が2つ、あるいは小さな部屋が4つのどちらかだったと思います。
これは恒星界のエネルギーを下におろすとき、ターゲットになるのは1つの部屋ではないということを示していると思いました。少なくとも、3つか4つということではないかと思われました。
3つか4つの部屋に振りまくということは、その反映として、地上でも3つか4つの神話を表現する活動として表現されるのではないかと思われます。
H1から降りてくる創造の光線の下降は、H96まで降りて、それより以下の世界だと、ワンネスという意識が欠落してしまうということになります。真の人間(仙人)は、H6とH24とH96の三分節のボディーですが、H6(恒星)からの光線は、H384の水にまで降りてきます。肉体を持つ通常の人間は、H12(太陽)とH48とH192の三分節のボディーで、H12からの光線は、H768の土にまで降りてきます。
エネルギーボディーを強化して仙人(恒星意識存在)のボディーとし、地上で生きるための物質の肉体と二重存在となることができるわけですが、地上的物質的制約に振り回されないための方法として、H6からの創造エネルギーと、H12からの創造エネルギーを両立させることができるのではないかと思われました。もちろんこのH6とH12は、個別に存在するのではなく、同じエネルギーの流れの中で、つながっていなくてはなりません。上の例で言いますと、アンタレスのH6のロゴスは、3つか4つの神話(H12)に散らばって、それぞれの部屋の中に感動体験をもたらすということではないかと思われます。

肉体次元にいながら異次元の複数レイヤーを見通す

Sさんは、いろいろな世界がレイヤーになっているのを、肉体次元で同時に知覚しているようなことを言っていました。しかし「眠っているときに見る夢は見ない」と言いました。それは私にはとても不思議なことに思えました。
彼女はいろいろな方向からのエネルギーが流れているのを知覚していて、詰まっているところを開いたりしているようでした。おそらく彼女は「フラワーオブライフ」という言葉すら知らないと思いますが、それを使いこなしているようでした。彼女はまた、大量にある骨の名前をすべて憶えていて、そのズレをすべて意識でき、修正できるそうです。
一方で、私は今のところ肉体次元で異世界を知覚することはほとんどありません。その代わり、眠っている間に意識が継続して、あちこち旅に出かけています。あるいはターゲットを瞬時に呼び出します。
私から見ると、彼女のほうがずっと難しいことをしています。私は肉体を強制的にオフの状態にしなくては、異世界を見ることができないからです。
このレイヤーを覗き込み、問題のところに焦点を当てるというのは、蠍座25度のX線の管轄です。私のヘリオセントリックチャートの火星が、このポイントにあります。私は、山羊座28度の金星と共に、奇妙な共鳴をそこに感じています。
彼女に声をかけている神様は、私にいろいろな話をしてくれたり、不思議なことに「どう思う?」と質問してきたりしました。そんな中で印象に残ったのは、「『もう肉体を離れなくてもよいぞ』と言っています」と言われたことでした。体脱や明晰夢の頻度はかなり減りましたが、今のところ、完全にやめてしまうつもりはありません。今は、「肉体次元にいながらレイヤーを見通すことができるようになりなさい」というテーマの提案として、その言葉を受け止めようと思います。

おわりに

私には、経験してきた感動体験が少なすぎると思いました。このことが私の可能性を狭めていると思います。それで人生を振り返ってみて思ったのですが、私は楽しさの絶頂の時に、真っ逆さまに転落する(絶望感を味わう)という経験を何度かしてきたので、喜ぶということに対して、警戒心が強くなっているのだと思います。「すごく喜んだあと、どうせまた転落するんだろう?」と、どこかで思っている自分があります。
しかしこの転落は、結局、横の価値観、地上の価値観に合わせて生きていた時のものであって、上昇型所以のものだと考えられます。
恒星存在となり、あるいは太陽存在となり、創造し続ける下降型の存在になったならば、そこに転落はありえません。下降型がもたらす感動は、「個体による個体のためのもの」ではありません。それは「クラスターによるクラスターのための感動」あるいは「みんなによるみんなの感動」です。私の地球ポイントが蟹座だから、特に、そのように思うのかもしれないですが。
下降型として創造と感動をもたらす経験を、少しずつ増やしていきたいと思います。今回の旅では、それを生々しく体験できて、とてもうれしかったのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?