宗教と社会(2) アーシュラマ再考
⑤ アーシュラマ再考
人間は霊魂の状態から肉体に宿り、この世界に生まれ、死ぬときに肉体を捨てて、霊魂の世界に帰るということになる。神秘的な体験を積み重ねれば積み重ねるほどに、それは当たり前のことのように思えてくる。我々は肉体や物質だけで成り立っているのではなく、むしろそれらは、地上に停泊するための道具、錨のようなものでしかないということが、体験的に分かってくるのである。
これらの事実を、机上の学問だけで体得することはできない。練習とかそれなりの訓練が必要になる。しかし練習・訓練とは言っても、本当のことを思い出すのは楽しいことなのであるから、昔から言われてきたような修行のように、厳しいだけのものではない。しかしこれも「厳しいのが好み」というタイプの人もいるので、人それぞれやり方は違ってくる。大まかには、お釈迦様が中道を語ったように、極端な禁欲とか、肉体をいじめるだけの修行をしたとしても、うまくはいかないものだと思う。それぞれ自分にあったやり方があれば、楽しく取り組むことができる。
私は体脱を何度も繰り返し、宇宙や異世界を訪問したり、神仏や歴史的偉人たちにもエネルギーレベルでの接触を繰り返してきたりしたので、それを机上の学問だけで語っているのではないということを言う立場にはいると思う。この接触の方法にもいろいろあるということを、ここで伝えておく。声で聞こえる人もいれば、見える人もいる。(私の場合は、体外離脱と共に、触覚と運動感覚を利用している。つまりは上位の存在たちに触られる感覚と共にそこに快感を体験をし、体が回転したり自動運動したりしてダンスのようなことが始まる。もちろん体脱の世界・異世界で見たり聞こえたりもしているし、味覚や嗅覚も体験している。このあたりのことは、「異世界探索記」をお読みいただきたい)
宗教と社会の関連について考察するとき、インド哲学における「アーシュラマ」の考え方を取り入れるのが、とても分かりやすく、馴染みやすいと思う。しかしこの考え方も、現代風にアレンジする必要はあるかと思う。
アーシュラマとはつまり、人生を4つの時期に分けるという見立てである。
Wikipediaを見ると、このように書いてある。
1 学生期 師のもとでヴェーダを学ぶ時期
2 家住期 家庭にあって子をもうけ一家の祭式を主宰する時期
3 林住期 森に隠棲して修行する時期
4 遊行期 一定の住所を持たず乞食遊行する時期
これを現代風にこのように見立てると良いのではないかと提案する。
1 学業期 霊魂が地上にやってきて、地上に馴染むために学ぶ時期
2 家住期 社会に馴染み、社会の中で生産・消費活動を楽しむ時期
3 林住期 自由に過ごし、全体性について学び、社会から離れていく時期
4 遊行期 死の準備し、霊魂を体験的に思い出し、地上から離れていく時期
これはつまり人間を4つに分けて考えることにもなるわけだから、一見、理屈的には平等性がないように見えるかもしれない。現代では、青年と老人が、同じように生きなくてはならないし、取り扱われなくてはならない。あるいは植物人間になり、もはや医療器具がなければ呼吸もできない人間と、社会の中で活躍する若者を、あたかも同列に扱わなくてはならないような感じに捉えられている。行き過ぎた平等観がまるでブームになっており、逆に公平性を失わせているように見える。
もちろん、現代でも分けて考えるということはある。つまり、未成年か成人かという見立てだ。(この分け方も次第に行き過ぎた平等性のような見方で、大人も子ども同じ尺度になりつつあるように見える)社会から見たこの見立ては、大まかに言ってしまえば、労働戦士として十分に育っているのか、まだ育っていないのか、という見方をしているのだと思える。今や、老人ですらも、生涯現役とか、生きがいを見つけようとか、社会参加することが至上の目的であり、そこに参加できないことは、もはや人間としてみなされないような空気がある。老人の集団自決みたいな話題が出てくる。
アーシュラマの考え方をここに対比させれば、私はそこに「魂と死の問題」が、現代の2分割の見立てに欠如しているのだと思えてくる。現代では、葬儀したりとかお墓を立てたりすることが通例となっているが、そこに魂を感じている人はどれほどいるのだろうか?ただ目の前から肉体としての個人がいなくなった寂しさだけを感じているか、あるいは唯物論的視点により魂などはないのだから意味のないことをしていると感じている場合もあるのではないかと思う。個人はただ肉体を脱ぎ捨てただけで、異世界に移動しただけだと確信している人や、それを自ら知覚している人となると益々珍しいものになってしまうのではないだろうか。
現代風アーシュラマの1と2は、どんどん地上に社会にコミットしていく時期なので、物質的価値観を重視する。どんどん唯物的になっていく。2は特に新脳を中心とした活動時期だ。合理性や効率性を楽しむのだ。
3は社会から徐々に距離を取っていくことで、合理性や効率性だけでは人間を語ることができないことを思い出す時期だ。
4は死ぬ準備をすることで、本来の人間の全体性を思い出す時期である。全部思い出すことにとって、美しく死を迎えることができるのだ。
整理すると、1は地上に馴染む、2は社会に馴染む、3は社会から出ていく、4は地上から出ていく、という流れになる。
私がここで最も重視するのは、4の時期である。この4の時期についてもっと人々が積極的に取り組むようになるならば、老後の人生は充実し、しかも若者たちからの尊敬を得られ、集団自決などと言われることもなく、必要な人材として扱われることになるだろう。社会問題を間接的に改善していく力学が働くだろう。
老人たちが死について学び、魂を生々しく感じられるようになり、死への恐怖を減らしていったとき、どのようなことがおこると予測されるだろうか。
まず老人たちの承認欲求は減るだろう。社会にコミットすることよりも、安らかな死後の世界に興味を向けることになるからだ。死後、全てが消滅してしまうという心理が、いつまでも社会的地位にしがみつき、「私はここにいるのだ!」と嘯き続けなくてはならない状態に陥らせるのだ。自主的に「老害」は減っていくことになり、社会は若い力によって動き続けることができるようになるだろう。社会的ポジションに空きができた分、仕事することができる若者が増えるだろう。
次に、金銭を手放すことが簡単になるだろう。現在、年寄たちがお金をため込んでおり、経済が回っていかないという状態がある。若者にまでお金の流れが行きつかない大きな理由の1つになっているのだ。唯物論的に生きているならば、お金や所有物がすべてだという発想になるのは当たり前なのであるから、いつまでもそれをため込み、人に与えない、消費しないという状態になってしまうのである。それにお金がたくさんあるというのは、唯物論的世界観の社会では、支配したり、敬われたりするのに絶好の状態なのであるから、死の準備を整えていないならば、手放すことがかなり難しいということになるのである。
面白いことに、唯物論的になればなるほど、いわばケチくさくなり、自分のもとに溜め込もうとすることになり、経済は悪化する。逆に霊魂を思い出していればいるほどに、そこに安らぎを感じ、物質とは仮初のものでしかないのであるから、手放したり消費したりすることに対して、躊躇しなくなっていくという現象が起こるのである。これはパラドックスであり、唯物論的になればなるほど経済は滞るようになり、一部に集中するようになる。結果として、貧富の差が広がっていく。霊魂を思い出せば、経済は動き始め、一部に集中することはなくなる。結果として貧富の差も減っていくのである。
人間への信頼というのは、その背後に、霊や魂の存在を認めるか、あるいは無意識的にも仮定しているはずなのであるが(もし人がただの肉の塊で、感情や思考かどもただの電気信号の総体にすぎないならば、それは人間を信じているのではなくて、物質を信じているにすぎない)、唯物論者は人を信頼することができないので、人間への信頼を前提とした社会ではなく、物やお金への信頼を前提とした社会を想定することになる。人を信じていないので、誰よりも多く金品を所有しているということが重要になる。彼らは勝ち続けなくてはならないのだ。
緊縮財政なのか財政拡大なのかという問いがあるとき、現在、社会的に勝っている状態にいる人々は、ほぼ緊縮財政を支持するだろう。なぜなら、財政拡大するということは、お金の流通が増えることになり、その分もちろんインフレになり、まず現在手持ちのお金で買えるものが減ってしまうことになる。いつまでもデフレが続いたほうが、安くていいものを、独占的に買い続けることができるのだ。次に、社会にあるお金の総量が増えて流通することによって、相対的に経済的な落差が減っていくということになる。これまで持っていた資金だけでは、以前のような勝者ではいられない。もしかしたら、立場が逆転してしまうかもしれないと想像してしまうだろう。人を信じていないので、今度は自分たちが貧しくなってしまうかもしれないと想像し、全員で豊かになっていくということを想像することができないということだ。
人間を信じているならば、これが逆の発想になる。全員が満たされる状態がありうると。例え私が窮地に陥っても、誰かが助けてくれるだろうし、もし誰かが窮地に陥ったならば、私は簡単に手を差し伸べることができるだろう。あるいはそのような救いあうことのできる社会システムを構築することができるだろうと。
人間への信頼が社会を支えて、経済のコンディションを良くしていくといことになるというのが私の意見である。そして人間への信頼は、人間を全体的に理解することによって得られるものであり、そもそも人間は肉の塊なのではないのであるから、唯物論に走れば走るほど、社会は混乱し、奪い合いの状態になっていくと私は考えている。そして今、最も欠如しているのが、霊魂の存在の認識であり、これを改めて獲得することによって、一人一人の人間に安心と真の意味での豊かさが体験され、社会を運営する力を信頼の力のベクトルのほうに動かすことができるようになり、結果として、物質的にも満たされた状態を生み出すことができるだろうと。
⑥ シン・集団自決
イエール大学に勤めている日本人の学者が、日本経済の立て直しのための処方箋として「老人の集団自決」と言って炎上し、テレビなどに出られなくなったというニュースを見た。この教授は、おそらく1つの例えとして分かりやすく極端に言ったのだと思う。一挙に老人がいなくなったのならば、確かに経済は動き出すかもしれない。
この発想は、人間を経済的価値観だけで見ていることから来る発言になると思う。もし人間に霊魂はなく、ただの肉の塊であり、ただの肉体的な欲望を満たすために生きている存在だとしたら、理屈的には、社会から見れば無駄なものや役に立たないものを除去し、社会をどんどん効率化することは、正しいということになる。資源は有限であり、役に立たないものに配ることはできないという理屈もあるからだ。
唯物論的価値観で人間や社会を眺めるならば、生産性のない老人、有限な資源だけを消費する老人には、価値を見出すことはできないし、老人たちも、それぞれ尊敬を得たり、社会所属欲求や社会承認欲求を満たしたりするためにできることはどんどん減っていくことは避けられない。孤独な老人がどんどん増えていくことになる。
この問題に対する対策は、私から言えることはもちろん、唯物論的価値観で生きることをやめ、実体験として霊魂の存在を感じられるように取り組んでいくということになる。その時、何が起こるのだろうか?
死に近づき、死へのリアリティーが増してくるほどに、死後の世界への興味は高まるはずだ。そしてそれゆえに、机上の空論としてではなく、真摯に、体験的に学ぶことができりようになるはずである。差し迫った死が、その学びに血を通わせ、自分たちが単なる肉の塊ではないことを証明するようになっていく。それは人間の全体性を体現することであり、唯物論的世界観からでは到底現れなかった感性や感覚、発言や行動、あるいは創作性などが展開されることになるだろう。スピーディーな社会からはリタイアし、そこから見えてくるものを捉え、教え導くこともできるかもしれない。
現在進行系で社会で活躍している人たちと同じ土俵に立たないほうが良いのは明白であり、まさに死という最も避けて通れない近づきつつある現実が、違う形で、真の尊敬を得られるきっかけを作り出すのである。
それにそもそも、死後の世界を予感し、次の世界を覗き始めたならば、もはや現状の社会において、社会承認欲求や社会所属欲求を満たしたいという願望もフェイドアウトしていくことになるだろう。それはもう去っていく場所であり、次の旅先に興味津々になっていくからだ。
これはある意味で自決のようなものだが、肉体を無理やりに滅ぼすのではなくて、自ら死に向かい合うという積極的な意味での自決と言える。死に向き合い、美しく去っていくための活動である。その姿は、子孫たちにも伝わり、彼らの人生全体に安心感を与えることになり、その分だけ奪い合いは減少し、信頼をもとにした社会づくりに貢献してくれることになるだろう。
すでに上で述べてきたことではあるが、死を受け入れるようになってくれば、金品を手放すことへの抵抗感がどんどん少なくなっていく。あれば使うし、なければないで大丈夫になっていくだろう。地上につなぎとめる分だけの金品があれば十分であり、それも少しずつ減っていって、最後には無くなることになる。地上的な生産的活動を停止し、消費するだけになっても、それがこの社会あるいは地上を円滑に去っていくことにつながるのである。そこには美を見出すことができるし、それゆえ子孫からの尊敬も(不必要になりながらも)得られるようになると私は思う。
⑦ 道を見出すこと
死後の世界や霊魂、神仏に真剣に向かい合い、取り組んでいくことが宗教者の役割である。それはいずれ誰もがやるべきことなのであるが、老後を迎える前から、そこに向かい合うのが宗教者の特徴と言うことができる。おそらく宗教者というのは、現状の社会に馴染むことが難しい人たちが職業的立場として選択しやすいものではないかと思われる。感性や資質が、効率化・高速化・合理化された社会に適応させることが難しい人々は一定数いる。彼らは規則正しく会社勤めすることは難しい反面、世間あるいは一般的な人間像からはみ出している部分が多いため、不可視の存在を感受する才能が高めになるという特徴があるのであり、宗教的活動に取り組むには都合が良いのである。
このようなタイプの人たちが違うケースでは、芸術家という選択肢もある。芸術的活動と宗教的活動というのは、似ている部分がある。芸術の全てが似ているというのではなく、一部の芸術家のしていることは、宗教家がしていることととても似ているということである。
これもより正確に言うならば、全ての宗教家が本質的な宗教活動をしているわけではないし、全ての芸術家が本質的な芸術活動をしているわけではないということになる。要は、不可視の世界・科学では説明できない世界に向かい合っていること、経済や社会を動かすためにするのではない活動、社会承認欲求を満たすためではなく、異世界を垣間見るような活動、魂をこめた活動などを重視していること、このようなことがカテゴリー分けの基準になるのである。お金儲けを真の目的としてアートをしたり、宗教活動したりしているのは、私の言う真の芸術活動とか宗教活動ではない。
さらに言うならば、「道」と言われていることに携わっている人たち。そこには体術的なことや芸術的なこともあるだろう。合気道、弓道、茶道、華道などだ。プロフェッショナルというNHKの番組があったが、私ならば「その活動を通して神や霊魂を見出している人たち」と言いたい。それらの道の先には、不可視の世界や神秘的なもの、神聖なものがあるのではないか。もしそれらがないのだとしたら、その「道」とはいったい何なのだろう?
そして「道」がついていない活動ではなかったとしても、それぞれの仕事の中に「道」を見出している人たちもいる。料理を通して道を見出す人たち、医療を通して道を見出す人たち、スポーツを通して道を見出す人たち・・・大道無門と言う言葉があるが、道は多種多様なのである。
だからこそ、宗教者にはなおのこと、「道」を見出すことを忘れないようにしていただきたい。宗教者から道、つまりは神性や霊や魂、不可視のものを感じたり認識したり、さらには一体化したりするという本分を無くしてしまったら、そこには形骸化したものしか残らない。過去からの遺物を引き継ぐだけのもの、「壮大なる老害」でしかないものになってしまうだろう。
逆に、それら本質的なものを提示することができるならば、人間を導き、間接的にではあるが、根底的に社会を改良してしまうという力学を発生させることができるポテンシャルを持っているのも宗教なのである。しかも立場上、自らの神秘的体験を語ったり、霊魂や神仏について真摯に語ったりしたとしても、何のおかしいことはなく、一般的な人が語るよりも円滑に受け入れられやすいという有利な点もあると言える。
もちろん一般人に対して、その真実を身を以て伝えるというのが社会的役割にはなるが、私としては緊急の課題として、老人たちの死の準備をお手伝いする役割をしていくことを重要視していただくのが良いと考えている。
⑧ 死を受け入れ、魂を思い出す
私は上に挙げなかった職業的立場として、さらに終末医療に携わる人たちにも大きな可能性があるのではないかと考えている。というのは、つい先日の実体験からそう思ったのである。
いろいろな事情を精密に語ることはここではできないので、かなり端折って記載する。よく参拝される女性がいて、息子さんが意識はあるが全身麻痺という状態であった。彼女にはたくさんの生活の問題があり、さらになぜこんなことになるのかと思いつつ、神社に参拝しては心を癒していた。そして息子がこんな状態になってしまったけれども、彼が生きている限り私もがんばって生きるのだと決意していたのである。もうかなりのお年で、彼女自身も体に障害を持っていた。数年たち、この息子さんが他の病気のために死んでしまうかもしれないということになり、彼女は落胆してしまった。この事態をどのように整理していいのか分からないと、私に話をしにきたのであった。普段は明るくふるまっていたのだが、この時は目に涙をためて、もう生きる気力がないと言っていた。
私は、私にできる限りのことがしたいと思った。私だからこそできることを。私は真摯に、死んで全てが終わるわけではない。魂はあるし、死んでから行ける場所にもたくさんある。体がなくなってからのほうが、いとも簡単に会いたい人に出会うことができる。一般的には、死ぬことは悪いことと思われているが、そんなことはない。それは息子さんにとっても、あなたにとってもそうだ。私をはじめ、神や仏に仕える仕事をしている人の一部は、そのことを体験的に理解している。これは事実であって、慰めとか、例え話ではない。このようなことを、彼女に合わせて伝えたのであった。
彼女は、「私は頭がよくないけれども、何か感じることがありました。私なりに今聞いたことを整理してみます」というようなことを言って帰っていった。
半月ほどたち、また参拝した彼女に本殿の前の通路でしゃべる機会を得た。
「宮司さん。宮司さんの言っていたこと、よく分かりました。実は終末医療のお医者さんが書かれた本を、偶然、読む機会を得たのです。ふだんなら、こんな本は目にも止まらず、読んだとしてもスルーっと、頭の中に何も残らなかったと思います。ところが、この本には、宮司さんがおっしゃったことと同じことが書かれていて、とても心に響いたのです。息子が死んでしまうことも、私が死んでしまうことも、怖くなくなってしまいました。すると、不思議ですね。逆に力が湧いてきたのです。もうちょっと、生きられるまでがんばってみるのもいいなと思ったのです」このようなことを話してくれたのだった。
私は、そうかと思った。終末医療こそ、死に向き合う最前線の場所の1つで、そこの医師ならば、死後のことや、霊魂のことなどを、一般の人たちよりももっと真剣に向き合うことになるのであり、その分、体験したことや感じたことを、人に伝えることができるはずだと。
さらには、私は彼女が偶然にもその本に出合ったことに、シンクロニシティーを感じていた。この本との出会いがあったからこそ、彼女は救われたのであり、私一人の言葉では、このように勇気づけることはできなかったに違いない。その話をしたのが、本殿の前の通路というのも象徴的であった。私は日ごろから祈っている彼女に対して、神様が手を差し伸べてくれたに違いないと思った。
私もまたその終末医療の本を読んでみようと思う。それと、私が思ったのは、この偶然性が重要なのであって、今回、このような感動的な体験ができたからと言って、全く同じことをすれば、また別の人が出てきた時にうまくいくかというと、決してそういうことではないのである。そもそもこの偶然を、私は再現することはできないのだから。この偶然こそが、彼女に対するメッセージが届けられるために必要なことだったのであり、ほかならぬ彼女だけが理解できればそれで良い体験でもあったのである。
このような体験を見せてくれた彼女に、神様に、そしてその本と著者に、私は感謝の気持ちを感じていた。彼女は私に「ありがとう」と言った。しかし私のほうこそ「ありがとう」という気持ちでいっぱいになっていたのである。
私はずっと、私の思いや意見を伝えられたらいいのにと思っていた。しかしずっと、「今は言う時ではない。言う時を誤れば、何かがくるってしまうかもしれない」と感じていた。そして、今なら伝わると思った時、自然に口から流れ出るように、私は私の体験や考えを彼女に伝えたのだった。
説教や説法、講演会のようなスタイルで、全体的に教えていく、伝えていくというスタイルももちろんやり方の1つであり、メジャーな方法である。しかし、今、必要なのは、1人1人が忘れてしまったことを、我が事として思い出すことなのであるから、このような繊細なやり取りや、偶然とかシンクロニシティーを待つという姿勢も重要になってくるのだと思う。「データで見て、統計的に、魂を信じている人のほうが多くなったので、私も魂を信じます」というような愚かな考え方では、全く意味をなさない。それでは何も感じることができないからだ。
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