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noteに身を置いた時の、HSPの「感じ過ぎ」は侮れなくて

 久しぶりに、HSP※の方とやり取りする機会があって、ある一部分がわかっただけなのに、大変嬉しく感じた。

※HSP とは
highly sensitive person=周りからの刺激を感じ過ぎる人のこと。https://hsptest.jp/にて、久しぶりにチェックしたけれど、ほぼ迷いなく選び、やっぱり「強い」と出ました。こちらで優れた部分や苦手な部分など、葛藤が辛い方は参考にするのもいいかもしれません。

 今年に入ってから、HSPについての新たな発見がたくさんあって、そのうちまとめたいなと思っているのだが、彼女とやり取りしたため、ほんの少しまたその感覚を刺激されている。

 「共感しなくても、理解しお互いの違いや距離を知りつつ受け入れ合えればそれで良い」

 基本的にそれが相性としても良いとわかってはいつつ、「ああ、あの感覚がわかる人が世の中にいる!」と思えるのは、生きる励みにすらなる。

 私の場合、周りの友人たちはHSPじゃない人が大半。noteの中だと、世間で言われている「5人に1人」よりもう少し割合が多い気がするけれど、HSPだから合うとか合わないとかではないのを、どうかわかっていただきたい。HSPにもHSPじゃない人にも、色々なタイプがいる。

 今回やり取りした彼女は、noteで発信をしていない、閲覧のみの方のようで、いつ読まなくなるか、そもそもこれも読まれていないかもしれないけど、この貴重な出会いを大切に思う。

 すぐ分かり合える部分があるのは、大変ラクだし、「私って少数派で変だと思われるのかな」という不安や孤独感から少しでも抜け出せる。
 
 特に彼女の「かわせみさんの文章を読んでいて、悲しいわけじゃないのに泣きたくなる」の気持ちは、とてもよくわかる。
 それは、泣かせる文でもなくて、一緒に泣いてほしい文でもなくて、私の文章力とかでもなくて!

 気づいている人もいるだろう。私、映画とか本とか漫画とか、noteでも、人の作品に触れると簡単に入り込んで心を動かされやすい。いったんハマるとけっこうな期間、どっぷりになってしまう。これもまたHSPの特徴の一つ。

 そうやってなかなか抜け出せないくせに、自分の書いている文章にはなかなか入り込みきれない。ハッと我に返る時の方が多い。だから急にトボけてみたり、ちょっとフザけたりしたくなっちゃう。そうじゃないと自分じゃない気がしてしまって。
 「こうやって書いているけど、そんなに全力で入り込めていないんだよ~実は」を明かしたくなるのだ。真面目なフリしてそうでもないから。と。
 フザけない時も、感情優先になれず、堅苦しい文章になってしまう。いずれにしても、繊細で情緒豊かな文章が書けない。

 それでもそんな私の文から、「泣きたくなる」を感じ取っているのは、彼女がHSPだからかもしれない。その感性にこちらも胸いっぱいになる。

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 HSPが、SNS全般で自分の身を置こうとしている時、いかに大変なものか、多分それほど知られていないと思う。
 「感じやすいんだな」「気にしやすいんだな」「考え過ぎでは?」が、強い印象だろう。
  
 でも我々HSPにとって、noteだって、かなりエネルギーを消耗する場所だ。

 多分、HSPで感じている人は多いと思うけど、コメント欄のやり取りを見ているだけで、しんどいだろう。私はそこは慣れることができて平気な方。慣れて大丈夫になるのは、本質的な部分で深刻ではないだろう。治りはしないけれど、ある程度慣れてラクになる場合もある。

 だからと言って、HSPをダメな部分とは思わなくなってきた。それについては、またいつか書くとして。

 noteでも、色々な人の思惑を感じ取って、大変疲れるのだけど、私は「書きたい」が勝つ。

 「書く」については、色々論じられている。私は自分の思考を整理するために書かずにはおれず、もう病的なのではと秘かに思っている。書くとスッキリし、心が落ち着く。

 前までは友人たちにそれを向けて、皆が「読むの大変」と思っているんじゃないかと心配だった。私にとっては気持ちを書いただけでも、「こんなに思っていたなんて」「エネルギーに圧倒される」とか言われちゃう。いや、「こんなに」ってほどでも「エネルギー」ってほどでもなくて、書きたいだけ。でもどんなに親しくても、そんな風に思わせるのは申し訳ない。

 だから30過ぎた頃、ブログが流行っていると知り、そういう場を知れたのは大変助かった。助かったけど、その中で人と交流するのは、とても疲れそうだから拒んでいた。
 それに、書いたところで読むのは親や夫くらい。友人たちには結局、時々手紙やメールを書く。そしてだいたい「気持ちを受け取った!!」と言ってもらえても「こんなに返事書けない」とか思われちゃっていた。
 だから、noteでたくさん書けるのはとてもありがたい。

 でもnoteで文章を書いている人の中には、ライターになりたい人、有名になりたい人、ストーリーを書きたい人、人と知り合うのを第一の目的にしている人、ひたすら読んでほしい人、承認欲求に溢れた人、そのためには手段を選ばない人たちだっている。様々だ。

 様々で、その中から「いや、私はただ書きたい」「読んでもらって(絵や写真なら、見てもらって)気持ちを分かち合いたい」って人を見つけるのは割と難しい。ライター目指していても、noteで「人としての」承認欲求を強く前面に出さない人を、最初はなかなか見つけられなかった。

 noteを練習の場とし、
 「わーん上手く書けない!」
 「○○に応募してみる!」
 「いつか作家活動するから見守っていて!」
は、私にとっては全然大丈夫。全力で応援したい。なんなら旗も振る! 両手で!!

 でもそういうんじゃないんだよなあ。
 文のムードから強い「読んで」が滲み出ている時。
 HSPは、それを感じてしまう。

 「いちいち」「それを感じる」と、息苦しい。
 感じるってつまり、その都度、自分の感情が刺激されるってことだから。その度に揺れて、友人たちに訴えたり、励ましてもらったり。考え過ぎないで、大丈夫よと寄り添ってもらったり。何とかそれで自分を保つ。


 でも最近、noteではnoteの楽しみ方があると、気が付いている。

 人そのものを尊重し、読んだもの、見たものを感じ、それを率直に分かち合おうとする方たちとつながれるようになってきたなあと実感できるようになってきた。

 そういう方たちとつながると、言葉の端々から感じるその人の思いにグッタリしない。無邪気にやり取りでキャッキャと楽しむ瞬間もある。傍からはちょっと入り込めない瞬間もあるかもしれない。

 でも他のSNSと違って、次に文を載せた時には、また別のやり取りが生まれるのはnoteの良い所と思う。

 noteで知る面白い人。繊細な人。元気な人。強い人。柔らかな人。

 今、私の周りには、「ついて来ない人は別」という枠や線引きのない温かい人が多い。

 私が何故、ツイッターを閉鎖し、細々と情報を得るためだけと一部の人としかつながれないかを、いつか書けたらなあと思います。それが書けたら、本当の意味で自分を受け入れられそう。


#エッセイ #HSP #SNS #note  

読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。