夫の言う「愛」と「知識」にグッときちゃって
エルトン・ジョンの「ロケットマン」を観てから、彼の昔のアルバムを繰り返し聴いては、歌詞にこめられた思いを感じている。特に食傷気味だったはずの曲たちに、改めて心揺さぶられている。
エルトンの、澄んでよく通る声と、ドラマチックで時々重さが出るピアノの旋律は耳に心地良いけれど、そこには彼の複雑で悲しく、寂しく、強い思いが隠されている。歌詞に含まれる相方バーニーの思いの深さを感じ、また聴きたいとリピートボタンを押す。
そして夫が買ったサントラも、時々かけてみる。そこには、エルトンを演じたタロン・エガートンのちょっと太い声で歌われる曲の数々。俳優だからなのだろうか、言葉の伝わる力が強くて、歌に込められた歌詞がよく聞こえる。
サントラだから、ほぼ映画のシーンの順に曲が構成されていて、そのシーンを思い浮かべられる。
エルトンの幼少期は、当然、子役が子供の声で歌う。その中の「I Want Love」が印象的。
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今朝、夫を出張へと送る車の中、その「I Want Love」がかかっていた。
「‘みんなが’愛情を欲しているってシーンだよね。まあそういうことなんだよね」
映画を思い返しながら夫に言った。
愛情を与えてもらえない家庭にいるエルトンが歌い始める。続いてお父さんも、お母さんも、おばあちゃんも。それぞれに足りていないからこそ、エルトンに与えられない。虐待の連鎖ってこういう風に起きてしまうんだよなと感じさせられる悲しいシーン。皆がそれぞれに「I want love」と歌う。
「でも愛情って、与えられるものじゃなくて、分けるものなんだよ」
夫が言ったので
「ほほう!」
と、感心してみせると、
「って、キリストか誰かが言ったらしいよね!」
と、夫が笑った。昔読んだ本が頭をかすめるけれど、思い出せない。
「ああ、そうなのか!」
私も笑った。
夫が育った家庭については、以前書いたのだけど、あまり幸せな家庭ではなかった。それでも夫は努力して息子と接し、息子はずっとお父さん子として育っている。いや、母親のことが大好きなのは、当然の前提として私は息子を見ているけれど。
私の父も、母も、自分たちの育った家庭に、苦しい過去はある。二人ともそういう家庭ではない家庭を作ろうと努力し、私も多少は不満を持ちながらも、おそらくその努力を感じ取り、すくすくと育ったのだろうと思っている。
夫が家庭の愛情について語る時、私の語るそれとは少々重みが違う。だから知った風な、理解した風な口を聞きたくない。普段戒めているけれど、ついうっかりしてしまったりする。自分が何を知っているのだと時々反省。
だから今回も、そのまま黙っていたら、
「僕は立場上、愛を‘知識’と置き換えて考える。それは皆に分け与えるものだと思っているよ」
と言ってきた。
「なるほどね」
相槌を打ちつつ、夫がこれから語る「知識」を「愛情」に変換しながら聞くことにした。
「その知識はどうやって分け与えるの? 自分で身につけた?」
と聞く。きっと「そうだね」と返ってくるだろうと思って。すると、
「ウーン。知識は自分の内側にあったよ」
「ほほう! そんなものなの?」
「そうだね。それを育てるのは自分だと思う」
「おお。名言だね。メモって良い?」
運転しながら笑ってみせたけど、心にとめておこうと強く思い、頭の中で何度か反芻した。
「知識」は自分の内側に本来あって、それを育てるのは自分。そしてさらにそれは分け与えられるのだ。きっと愛情も。
そうやって、夫は自分が与えられ足りなかったものを息子に与えているのだと考えると、それは、人それぞれの中に「与えられなかったから、なかった」のではないと気付いた。
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エルトンも、バーニーに友情という愛を与えられた時、それを育てられたのは、元々自分の内側にあったからなのだろう。それを見つけさせ、育ててくれたのがバーニー。だけど、自分でも気づいて育てないと、大事にできなかっただろう。
エルトン・ジョンと、心に傷を負ったあらゆる子供を一色汰に考えるわけではないけれど、大小、傷を負ったサバイバーたちが、どのようにサバイバーとなったのか。どのように自分の子供に愛情を与えられるのか。
夫の言葉を聞いて、そこに思いを巡らす時の小さなヒントとなった。