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苗字さえ覚えていない彼女~幼稚園時代の思い出より~

 父の仕事があり、半年遅れで私たち家族はニュージャージーに行った。
 3歳の頃。最初は、近所の現地人たちに私は圧倒されるばかり。英語はもちろん喋れないし、話さなくて臆病になっていると、それだけで取り残される。


 現地の雰囲気や英語に慣れさせようと、母は私を保育園に入れた。友達はできなかった。日本人を見つけて頼ろうとしたけど、おどおどしているだけの私と親しくしようとする子はいない。先生たちは私を構うわけでもなく、突き放すでもなく。私が英語を話せないことで、私を悪者にして自分の立場を良くしようとする子もいた。その頃には何を言っているのかわかるようにはなっていたものの、まだどのように話せば良いかわからず、おどおどしていた。おどおどしていても誰も助けてくれない。先生も黙って見下ろすだけ。悔しく悲しい思いをした。言わないと誰も助けてくれない。
 でも時々数人ずつ部屋に呼ばれて遊ぶ作業の時、先生方は、いつも私のすることや、ちょっとしたオシャレを褒めてくれた。保育園児が母のマネをして、マニキュアを小さな爪に汚く塗っていただけでも「まあ素敵ね!」と。描いたものでも作った物でも、私は上手でもなかったけど、些細なことを見つけては褒めてくれた。

 その後、小学校の建物の中にある幼稚園のような所に通った。もう英語は話せるようになっていたけど、一人の女の子に毎日ひっかかれていじめられてしまった。痛くて惨めで涙がこぼれるのをばれないように顔を伏せたり何かで隠したりして耐えてしまいました。でもある日、クラスメイトの子が皆の前で大きな声で先生に訴えて、イジメはなくなった。あの勇気ある彼女の言動は、目に焼き付いている。

 しばらくして慣れた頃、出会ったのが、ようこちゃん。途中からクラスに入ってきた。転入してきた日、心細かったのか、教室で皆の前に立ち紹介されている間中、彼女は泣いてばかりいた。アジア人だからということで私の隣に座らされてもまだ泣いていた。「あの……大丈夫?」と聞くのが6歳くらいの私には精一杯だったけど、彼女は涙を拭きながら「日本人なの?」と聞いてきた。「ウン。」

 それから私たちは、とても親しくなった。休み時間になると校庭に出て、シロツメ草で花冠を作ったり、他のクラスメイトと追いかけっこをしたりした。無邪気過ぎて頼りないけど、ハッキリ意見をいうようになっていた活発な私にとって、少しお姉さんぽい雰囲気のようこちゃんは、大好きな存在となった。他にも日本人の女の子たちはいたけど、ようこちゃんが私にとっての一番のお気に入りだった。彼女は伸び伸びしていて、やはり自分の意見をハッキリ言う。でも他の子の悪口を陰で言うようなことはなく、意地悪なところも全然なくて、気に入っていた。あと、私にとって大切な、「人との距離感」が絶妙に相性良い。女の子にありがちな束縛的な関係ではなく、基本的に一緒にいるけど、お互い自由に他の子とも親しくできるっていう気楽さ。一緒にいる時は私の言うことに耳を傾けて寄り添ってくれていた。彼女は表情も少し大人びていたけど、笑顔はとても優しくてそれが可愛かった。帰宅後も家を行き来するようなことは特になく、誕生日に招待するとかその程度。だけど幼稚園に行く毎日が楽しくなった。


 でも私が帰国することになった時、私は事態がまったくのみこめていなかったため、「寂しいな~」と言ってくれる周りに対し、「また戻ってくるよ!」と言ってアッサリこちらに帰ってきてしまった。

 私はようこちゃんについて、何の情報もない。苗字も知らない。どこに住んでいたかも知らない。「ようこ」という名前ですらちょっと自信がない。さらには小学生になった時の記憶もない。あちらで言う小学二年生まで私はその幼稚園と同じ建物にあった学校に通っていたけど、ようこちゃんとの記憶がない。ただ幼稚園では大好きな友達だった。

 ようこちゃんに、会わなくても良い。彼女がどうしているのか、その後どういう人生を送ったのか。どうやったらわかるのだろう。

 NO.2スクールのキンダーガーデンに入ってきたようこちゃん、元気で暮らしていますか?

 あなたのおかげで、私の心細かった幼稚園時代がとても華やかなものに彩られました。お礼を言いたいです。どうか、あの素敵な笑顔のようこちゃんが、幸せに暮らしていますように。


#幼い頃の友達 #ニュージャージー #幼稚園 #NO .2スクール #大好きな友達 #女友達の距離感 #思い出

読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。