急に湧いてきた興味~今までの「絵」との関わり~

 すっかり絵を描かなくなっていったい何年なんだろう。子供と遊んで描いたのを除けば何十年単位だ。
 元々絵を描くのは上手でもない。学校などで褒められたこともなければ、何かを目指したこともない。才能のかけらも感じたことのない。好きで好きでたまらなかったわけでもない。

「でもまたちょっと描いてみたいなあ」が、何故湧いてきたのか。

 ここ一年くらいでじわじわ気持ちがわいてきたのだけど、最初のほんの小さなきっかけは、「鬼滅の刃」のすごく好きなシーンを「でっかくして飾りたい」「Tシャツにしたい」からだった。好きなシーンが偏っていて一般性がないのはわかっている。大きさのバランスとか色合いのこだわりもある。当然出回っていない。
 そんな私の言葉を聞いて夫が「じゃあもう描いたら?」と言う。

 ええええー……!!

 戸惑っていたら夫が「僕は、‘ガーディアンズオブギャラクシー’のロケット(アライグマのキャラクター)のシーンをTシャツにできたらと思ってる」とか言い出す! 夫も絵が上手なわけでもないから、好きなシーンを選んでその瞬間をTシャツにうつし込んで着るのだと。
 なにそれ羨ましい。
 私もそれしたい!
 ブルースバナーのシーンも集めたいなあ。

 好きなシーン、表情って自分で描けると良いよなあ。

 ふと思った。

 絵……。って。


 どうやって描くんだっけ。

 noteでたくさんの可愛い絵と接する。「始めてみた」人たちもいる。どうしてそういう心境になったんだろう。私は何かの絵を描きたいなんて気持ちにならなかったなあ。
 絵って、やっぱり「描ける」人がいて、そこには才能がある。文みたいに誰でも楽しんで良いはずだけど、素人目にも「上手!」な人たちがいる。プロの絵やイラストみたいに描ける気はしない。経験が違う。

 はてさて。どうしたら良いのかな。
 子どもの頃はみんな何となく楽しんで描いていたはず。私はどうやって「絵」と接してきたっけ。

 幼い頃の絵に関する一番の思い出は、ニュージャージーの幼稚園で、キャンバスを前に好き放題描いていた場面。教室内で順番に呼ばれ、キャンバス前に行く。大きな紙が上から垂らされ、インクの入った缶に太い筆が突っ込まれており、与えられた時間に好きな絵を描ける。今見るとかなり豪快で繊細さのかけらもない、「私、上手だったんだ」と微塵も思えないものばかり。
 だけど誰とも比べられない一人の世界。
 没頭して良い大好きな時間だった。

 祖父が油絵を趣味とし、家で暇さえあればキャンバスに向かい、個展を開くのを夢としていたので、私もおじいちゃんみたいになるんだと豪語していた。
 でも私にはアイディアがあまりなくて、先生の例をなぞったような作品を描きがち。他の生徒に「カセミは、先生の真似してる~」って言われて「そんなことない!」と反論しながら「えーと。ちょっと真似しちゃいました」と罪悪感を覚えた。独自のものが思い浮かばないなあと。
 でも多分その頃に培われた感覚のせいで、帰国後に「絵を描く時周りを見ながら」の精神がなかったのだろう。

 以前に記事を書いたことがあるのだけど、日本の学校で絵を描く時。図工の時間は恐怖だった。

 一部抜粋、編集してみる。

絵を描くのが苦手なのかもしれないと最初に自覚したのは、帰国子女として入学してすぐ。
図工の時間に絵を描くと、色の塗り方を同級生に注意され、先生に指導された。
縁をなぞるように塗ってから、はみ出さないように力を入れずに中を塗りつぶすと言われて、そんな決まりがあるのかと知った。
それを守ってみても、皆と違う仕上がりになる。
全員のが後ろに貼り出されると「誰やこれ描いたん」と笑われた。皆の絵がどれも似ているように見えて、自分の住む世界が当たり前ではないのだと気づいた。足がすくんで周りの音が聞こえなくなるくらい、座り込みたいくらい、世界が回って見えてクラクラした。
7歳の頃の、この恐怖心は長く引きずった。これもきっかけの一つとして「同調圧力」の存在を知る。
それでもどうしたら良いのかわからなくて、何となく図工の時間をやり過ごした。壁に貼りだされる度に、自分のが皆のと違うのではないかとハラハラして怖かった。
(そして後に、夫に「周りを見ながら描いていくから図工の授業なんてつまらなかった」と聞かされ「周りを見ながら描けば良かったんだ」と知る間抜けな私なのだった。)


 中学生になる頃には、すっかり絵を描くのは苦手な側だった。

 美術の時間も、自分のは何だか奇妙だなと、出来上がりを見て思ったし、上手な人との大きな違いとして「私には根気がない」を思い知る。私は呑気でのんびり屋さんなところと、すごくせっかちでがさつなところがある。絵を描く時は「せっかち」が際立つ。早く「出来上がり」を見たくなって雑。けっきょく思うような「出来上がり」にはならず後悔する。

 でもよくわからない衝動は時々起きて、家で突然何かをデッサンしてみたり、心象風景を描いたりしてみていた。
 20代半ばで仕事をしていた時も、ニュージャージーで暮らした時も、休みの日は水彩画で心象風景を描くのが好きだった。
 とても人に見せられるようなものではなかったけど。

 私は「色」の組み合わせや重なりに、自分の「目や心が喜ぶ」感覚が好きで、時々目にしたくなる。既製品で目にできないと、自分で色を作って塗って眺めるしかなかったのだ。

 ルームメイトも、夫も、絵を観るのが好きで一緒に美術館に出かけた。好きな絵の前で好きなだけたたずんで全身で絵を感じ、目に焼き付ける。自分の感覚に喜びを与える。
 初めての夫と二人での旅行も、6時間のドライブでペンシルベニアのアンディ・ウォーホル美術館が目的だった。

 そしてそこまでだ。


 札幌に住み、絵との触れ合いはほぼなくなった。美術館に行くことも滅多になくなり、絵も描かなくなった。下手でも続けたい気持ちもなかった。

 文章についての講座など開かれるのを耳にしたり、セミナーなどの言葉を聞きかじったりする度に思っていた。
 「書きたいことがなければ無理に書かなくて良いのに」「プロになるわけでもないなら、自分なりに書けば良い」なんて。きっとそんな私だから文章力が上がらないのも当たり前なのはわかっている。それでもあふれる思いを書きたいなら自然に身を任せていれば続けて良いわけで。


 ……ごめんなさい。

 もうもう全力で謝ります!!

 今の私、特に絵を描きたいなと思った当初は「絵を無理してでも描きたい」「プロを目指すとかじゃなく好きに描きたいけど、どうすれば良いのかわからない」。誰かに教えてほしいと、すごく思った。

 でもそんな風に考えている間に、Twitterでフォローしているお笑い芸人かが屋の賀屋が「漫画描けるようになりたい」と、テキスト本を買って練習を始めているではないか。
 モデルが横にありながら、「なんか違う」風に出来上がっていて、爆笑するほどに下手ではないのがまたリアル。

 そうか。こんなところから始めて良いんだな。
 私も早速買って、練習を始めている。私は鉛筆が好きなので鉛筆だけどいつかこれをペンや筆に替え、さらには液タブも使えるようになれば良いなと思っている。

 まずは線から。
 同じ一本の線の中で太さを変えたり。
 箱を描くにも角度を変えて奥行の出し方を学んだり。
 もう初歩も初歩。

 テキスト三冊くらい買っちゃったから、まずはそれで達成感を得たら、私のことだからちょっと描いてみようって気になるだろう。「鬼滅の刃」の好きなシーンををなぞるだけでも良いから、描いてみたい。そこまでもだいぶ先過ぎて見えていないけど。
 いつかMCUのキャラクターを描こうまで思えるのだろうか。
 動物や花の絵も描いてみたい。自分の様子を客観的に漫画風のイラストにしてみたい。
 「ただちょっと」描いてみるハードルが高すぎて果てしなく遠い未来だ。

 でも自分なりで良い。自分がどんな風になりたいかを思い描いて楽しめば良い。

 80歳でピアノを始めた父が、最近エルトンジョンの曲に挑戦しているぞ。50歳になる私だって何かきっとできる。


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読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。