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多くの人が、「マイノリティー」の立場を経験しているのかと気づいて

 重松清の「きみの友だち」から感じたこと、まだあるので書きます。

 読みながらずっと気になっていたのは、これを読んで共感する人が多いのだろうということ。それは映画を観る時も気になっていたこと。

 主人公とされる人が、独りぼっちになってしまう。イジメられる。人に理解されなくて心細くなる。そういったことから気持ちを整理していき、その人の人生を歩くようになる。

 人々が共感しやすいこの物語。

 共感しやすいけど、私たちには独りぼっちに思える瞬間がある。

 「マイノリティー」という立場を経験したことを思い返してみる。

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 私は物心ついた時、ニュージャージーに住んでいたので、気が付いたら、わかりやすいマイノリティーだった。4歳くらいで、英語が話せないことから下に見られて、5歳くらいで「日本人!」と石を投げられ、6歳くらいで人の真似をしたり意見を言わないでいたりするとバカにされた。だから私は自分の思ったことを言うようになり、自己主張し、人と違う部分でも誇りを持てば良いんだと思うようになり、否定的な意見でも伝えるようになった。

 7歳くらいで帰国したら、こっちで私はマイノリティーになった。先生に質問すると困った顔をされ、絵の描き方が違う、持っている物が違うと指摘された。

 2年生に上がると、先生がおおらかで私を積極的に受け入れるムードを作ってくれてとても楽しかったけど、体が丈夫じゃないため、大切な時に休んだり保健室に行ったりする羽目になり、こんなところが皆と違うのかとガッカリしていた。

 その後、転校した私は、そこで一人の女の子のイジメのターゲットとなった時期があった。

 この頃から、もうちょっとでも目立つのは心底ごめんだと思った。あれやってみたい、これやってみたい、から、あれやりたいけど「目立つことだからやりたくない」に全部変換して、できるだけ何もしない立場になろうと心掛けた。本当はやりたいこと、ちっちゃなことばかりでも、山のようにいっぱいあった。

 中学から入った女子校で、私は初めてマジョリティー側にいった。似た雰囲気の子が多くて楽しい。でもマジョリティー側に行ったとて、私は帰国子女で人と違う自分をずっと抑えて過ごしていたし、皆それぞれ何か葛藤を抱えているものだった。

 その後、再びニュージャージーに行った時、「自己主張が弱いのね」と指摘された。もう私の中には、遠慮が極端に強い自分が定着していた。ああもうこっちでもすっかり私は通用しない側なのかと実感させられた。

 その後、暮らしたいと強く思って再び暮らし始めた25歳の頃、アジアの人たちは一括りにされていることを感じた。日本人も中国人も韓国人も一色汰にされ、私たちは結束してアメリカ社会の差別と向き合わなければいけなかった。「向き合う」って、そんな大げさなものではないのだけれど、オリエンタルはオリエンタル同士、仲良くしなければ心細い。アジア人としての、差別される側の立場を共有し、アジア人としての共通点を探って私たちは親しくなった。もちろん当人たちにとって、違いは明確なのだけど、アメリカでの立場は一色汰。

 そして帰国して、夫の故郷、札幌で暮らし始める。北海道という場所柄、色々な場所から来ている人が多くて、合理的な暮らしぶりや考え方の人も多いけれど、時々出会った「道外の人」「内地」という言葉には引っかかった。

 関西に住んでいた時も、関西以外の所から来た人たちを認めない風潮はあった。お笑いも食文化も関西がすべてだという保守的な考え方に出会うことがある。自分たちの所が大好き、と誇りを持つことは素敵だし、支持する。私だって関西も大好きだけど、じゃあ他の所は「下」だということはない。

 東北に住むことになった時も、この考えは当然思い起こされた。学生時代の、東北地方の言葉や人を小ばかにした考えを思い出した。一緒に笑っていたから自分の中にもあったのだろう。今、住んでいるところを、関西の友人たちがどのように思っているかなと時々思う。

 そして住んでいるこちらはこちらで、よそ者を受け入れない空気が強い。「子育ての場で、輪に入れてもらえない」と保育士さんに訴えると「今の若い人たちはそんなことないはずです」と言われ、中にいる人は悪気なく気づかないのだと知った。

 息子が小学生に上がると、「おじいちゃんおばあちゃんが近くに住んでいることが前提」であらゆる物事が決まっていることにも困った。子供は預かってもらって保護者は参加してねっていう。子供の引き渡しとかでも保証になる人でも。

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 例に出してみた私自身のこと。マイノリティーであることを感じることが多い人生なのだろうか。と考えた時に、最初に書いた思いに戻る。

 マイノリティーである時の気持ちに共感している人が多くて、本や漫画や映画がヒットしているのなら、マイノリティーである経験て、多くの人がしているのかと。じゃあマジョリティーってどうやって決まっているのだろう。

 本当の「マイノリティー」って、なんだろう。

 イジメられた時、一人の強い意識によって、周りも動いた。自分はイジメられたくないという気持ち。目に見えない差別や潜在意識。孤立が怖くて、マジョリティーだと思っている側に加わることもあるだろう。でも本当はマジョリティーではないかもしれない。マジョリティーって思っていても、マイノリティーの気持ちがわかる人も多いだろうし、その瞬間は「マジョリティーである」安心感を持ちたいだけかもしれない。イジメている側も、実はマイノリティーである自分が孤立することが怖くて、「こっちが普通」という意識を周りに強く訴えて出ているだけのこともあるのではないか。

 そして、実際に数が少ない場合でも、それぞれのマイノリティーの立場の人が集まれば、「マイノリティーを経験したというマジョリティーの集団」になるのではないだろうか。その考えは、ニュージャージーで体験した「オリエンタルの集まり」と似ているかもしれない。

 私たちは多かろうと少なかろうと、強い調子で大きな声で正論をぶつ人を恐れ過ぎてきたのではないか。今も。そして私も。

 だから、「人はそれぞれで良い」という言葉を何度も確認して、あえて声を出していかなければいけないのかもしれない。

 子供を見ていて特に思う。マジョリティーってなんだ。マイノリティーってなんだ。

 個人個人、人と違うかもしれないことを、もっと声をあげていったら大きな声になること、あるかもしれない。SNSのおかげで、少しずつそんな機会も増えているので、SNS、悪くないもんだと、そんなことも考えさせられました。

#本 #きみの友だち #感想 #マイノリティー  

読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。