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正しく考え続ける

ちょうど去年の今頃、とある資料館に行ったときに、
考えるのをやめないことが平和を実現する上で重要であると読んだ。

自分は今、与えられる側であることが多い。
教育を受けるものであり、学習者である。
教育者になろうとしている学習者である。
思想も、言葉も、それらをひっくるめて文化としたとき、
その文化の色に染まることが多い。
染まりたくないといっているわけではない。
学ぶと言うことは、まねぶから来ている言葉で、
まねると染まるは近い位置にあると思う。
大事だと思う。必要だとも思う。(自分はこの真似ぶの段階を吹っ飛ばしてやろうとして苦い思いをしたことが何回もある)
一旦受け取らないと、受け入れないと学べるものも学べない。
受験で数学の公式を何でこうなるの?何で数字はこの形なの???と言ってもしょうがない。
だから必要な段階。
問題はその後。

その後自分のものとしてどう使う?って言うところである。


その後自分のものとしてどう使う?

日常生活の中で、つくる側に意図があるという場合が多いと気づいた。
部屋の窓の大きさ、向きはちょうど良い。
自動販売機のボタンの位置、なんとも絶妙な高さ。
イベントの告知ひとつとっても、
デザインされたその作品にきっとそのフライヤーを見たときの心情、その後の行動、購買行動までデザインされている。
言葉もその言葉をつかえば、今まで表現できなかったことが全て集約されて表現されている(ような気がする。)

便利である。
ただ、悲しいなあ。と思った。
便利が、機械的に見える。
せめて自分ごととしてつかうときには、気づいてって思うことが沢山ある。
つくる側の気持ちを全て知っているわけではないが、
「受け取る」というよりも「超消費」みたいな感じ。
綺麗な表現ではないけど、
「ご飯を食べる」ではなく「餌を与えられる」みたいな。
うーん。伝われ!!!


あるものがそこにあることに、ありがたさを感じる。
ありがたいは「有難い」。
有ることが難しいということと何かのCMで小さいときに聞いた。
この世にある物全てには、生まれるまでのストーリーが何かしらある。
そのそれぞれのストーリーがあるものと自分の人生、言葉、思想、が共感したとき、一度立ち止まりたい。
本当に一致しているのか。
全く一緒なのか。
自分が表現したいものをそれを使う事で妥協したことにならないのか。
難しく考えないでいいときもある。
でもこう考えることが、多分、「平和」に向かう考え続けると言うことなんだろうと思う。

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