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父と郵便局の思い出

私が小学2年のとき、社会科で郵便局の見学に行った。
父は郵便局員で、その頃ちょうど市内の見学先の局に勤めていた。

数年前に実家で荷物の片付けをしていたとき、小学校時代のダンボールから
宿題のノートが出てきて、パラパラと見てみると、ちょうどあの時の日記が。
 帰ってきたお父さんに「明日、はやばん?おそばん?」と聞きました。
 お父さんは「はやばん」と言いました。
 私はわーいわーいとぴょんぴょんとんで、台所の床ですべってころびました。
というような文章が丸こい文字で書いてあった。
日記に書いたのも転んだのも忘れていた。
私ってそんな風に子どもらしくはしゃぐこともあったんだな。
すごく懐かしかったけど、そのときは引越しに伴う片付けの最中で、
こどもが幼稚園に行ってる間に終えなければと、とても急いでいたため、
そのノートは、そのまま資源ごみの山に積んでしまったけど、
あのページだけ写真でも撮っておけばよかったな、と今更だけどちょっと思う。

あの当時、父の勤務は朝から夕方の早番と昼から夜までの遅番があり、
早番だったら見学の時にお父さんがいるからうれしかったのは覚えている。

見学のとき案内や説明をしてくれたのは違う局員さんだった。
奥のほうに父の姿が見えて、隣の友だちにそっと教えた。
友だちは父が郵便局員なのを知っていて、どこどこ?という様子だったから。
父もチラッとこっちを見てから、なんでもないふうにして働いていた。
お互いに、知ってるよ、と思いながら何もないふりをしてる感じが楽しかった。
郵便局の仕組みなんてだいたい日ごろ父から聞いて知ってたから、
説明を聞いてるようによそおいながら、視野の端で父を追っていた。
父はじきにどこかへ出て行ってしまい、私たちも別の階に移動したから、
わずかな間だった。でも働くお父さんに授業中に会ったという特別感で、
その日は、夜、それぞれ帰ってきて、
「今日お父さんいたね」
「ほう、見つかったかね」
と話すまで、ずっとわくわくしていた。

その見学以前にも郵便局の中に連れて行ってもらったことはあった。
昔のことだから規則も緩かったのだと思う。2歳3歳か、幼児のころ。
「非番だけどちょっと用がある」というので、散歩がてら一緒に行った。
父は郵便課の、配達や窓口ではなく中の仕事だったため、
集配の荷受けをするところを通り抜けて、事務机のいくつかあるところへ。
あれは日曜だったのか、人は少なく、机で仕事中のおじさんが一人だけ。
近づいた私を見て、「人見知りせんくなったね」と父に言うと、
事務机の右下の深い引き出しから煎餅の大きい袋を出して渡してくれた。
昔からあるような、大きくて硬い醤油煎餅が大袋に入ってるの。
小さい子どもにくれるようなお菓子ではなかったけど、受け取った。
多分このおじさんのおやつなんだろうなあと思いながら。
ありがとう、と言えたかどうか覚えていない。
父が代わりに「すまんのん」か「ありがとさま」と言ってたかもしれない。
煎餅はほとんど父が食べたから、そうなるのも分かってのやりとりだったかも。
あの頃は親戚でも知り合いでも、周りの大人の人は小さい子がいるっていうと、
お菓子とか、ちょっとした文房具とか、何かしらくれる人が多かった。
そして子どもがちょっとでも喜ぶとすごく嬉しそうにしていた気がする。

人見知りせんくなったね。煎餅のおじさんが言ってたことが引っかかっていた。
前にもこのおじさんに会ったんだろうか?記憶がなかった。
自分の経験なのに覚えてないことってあるんだな、と思った。
わずか数年のそこまでの人生でも、すでに忘れてしまったことがあるなんて。
ついこの間のはずなのに。
1、おじさんの机には仕事とは関係ないもの(おやつ)も入っている。意外と自由。
2、人間は経験したことでもきれいに忘れてしまう事がある。要注意。
その日の発見はその二つだった。

そんなことがあったからか、
小学生の頃、楽しかった日はそれが過去になって忘れてしまうのが悲しかった。
写真も映像も残ってないから、関わった人が忘れたら無くなってしまう。
もともと寝つきが悪い上に、悲しくてなかなか寝つけなかった。

市民祭りみたいなイベントがあると、郵便局のテントも出る。
青いハッピを着た父が記念切手などを売っているのを母と見に行ったりした。
そういうのはどちらかといえば若手の担当だったのかもしれない。
私が子どもの頃には父はよくそういうイベントの日に働いていた。
記念の消印を押す仕事もよくあり、きれいな押し方に自信があったようで、
母が自分で近所の局で記念消印の切手を買ってくると、
「この人の押し方はまあまあだな」とかこう押せばいいのにとか言っていた。

あのころ、どれくらい売り上げのノルマがあったのか知らないけど、
年賀はがき、かもめーるはがきは親戚の分も取りまとめて買い、
家の分も多めに買うからいつも余って、“切手の引き出し”に常に入っていて、
母が懸賞の応募にせっせと使い、たまに何か当たると喜んでいた。
切手シートなども好みの絵柄が出るとよく買ってきていた。
母も若い頃から切手収集していたし、私の分も切手帳が何冊にもなっていた。
ふるさと小包も時々買ったり親戚にお中元お歳暮にあげていた。
クリスマスのゆうパックの、八つ切り画用紙くらい巨大な板チョコ、
ただの茶色いチョコだけどサンタクロースの絵の浮き彫りみたいになっていて、
すごく堅くて金づちで割ってもらって食べたこともあった。

逓信なんとかいう業界誌も持ち帰るので、私も暇な時にパラパラ見ていた。
郵便マークは逓信のテ(諸説あります、らしい)という話も知っていた。

郵便物を出すときは、はかりにかけなくても、父に渡すと手に乗せて、
「これは・・・ちいと重いで〇〇円かなあ」と判定してもらえて、
切手も各種そろっているし、貼ったら次の勤務に持っていってもらって、
すごく便利だった、というのが父がいなくなった今よくわかる。
そして最近は郵便を出す用もずいぶん減り、
昔ははがきはいくら、封書はいくら、誰々の郵便番号は何番、と覚えてたのに、
今はいちいち郵便ホームページで確認している。

郵便番号や町名も、父はよく覚えていた。
若い頃(たぶん独身時代)は配達もしたというし、
内勤になっても手が足りないと仕分けを手伝うことはよくあったので、
〇〇町っていえばあの辺だ、郵便番号〇〇はあの辺りだ、など、
地元の番号を把握してるのはもちろん、遠くでも、何番は何県かな、くらいは。
厄除けならどこがいい、合格祈願ならあそこだ、みたいなことや、
「今年も何号線沿いでメロンの直売が始まった」だとか、
「あの場所は出るだよ、戦時中に朝鮮人をいじめたもんで」(幽霊!?)
といったことまで、“お父さんが局の人に聞いた”情報の数々。

いくつかの局で働いて、ある街は意地悪な人が多いと言い(クレーマーがいた?)
ある局は近くに研究所があるせいか変わった人がよく来ると言い(個人の感想です)
最初に勤めた地元の局が良かったと言ってたけど、
残念ながら再びその局に勤めることはなかった。

時々、昇進のための試験があって、
受けるように言われるからしょうがない、と受けていたけど、
受かって昇進すると忙しくなるし遠くに転勤があるのが嫌だから、
わざと手を抜いて不合格になるんだと言っていて、
課長になると大変なのでその手前の上席課長代理までで留まっていた。

たしか私が小中学生の頃の夏休みだった気がする。
局のポスターコンクールに出さないといけない、とか言いながら、
そういうのは嫌いではなかったようで、丁寧にポスターを作っていた。
画用紙に手書きだけど、私が学校の宿題で描くのとは次元が違って、
まずデザインを考え、下地をむらなく塗って乾かし、
文字はレタリングの本を見ながら定規も使ってきっちり書き、
霧吹きで絵の具を吹き付けたりして現代アートっぽく仕上げて、
“レタックスで郵政の未来へ” みたいな感じのを作っていた。
絵の具が、水ようかんの入っていた小さな缶に少しずつ入って並び、
新聞紙を広げた上にのったポスターが何度かの休日の間に仕上がっていく。
もう完成かと思うと、そこからもう一段階二段階手が加わって、
出来たら巻いて輪ゴムでとめて局に持っていく。

父は「父ちゃんは帰宅部だった」と言っていたけど、
父の高校の卒業アルバムを見たら、美術部のところに写っていた。
仮に幽霊部員だったとしても美術部に入るくらいは美術が好きだったんだろう。

仕事はクレームの電話対応がきつかったようで、
「電話は嫌いだよ」とよく言っていて、家の電話には絶対出なかったし、
自分へかかってきた仲の良い兄弟からの電話さえ渋々出ていた。
上司がいじわるな人に当たることがあったり(今でいうパワハラ?)、
年末年始は年賀状で猛烈に忙しく休みもなく、帰宅して倒れるように眠ったり、
“公務員の安月給”の時代から働き、不景気になったら公務員はずるいと言われ、
いろいろ大変そうでもあった。

宛先の自動読み取り機が導入された当初はエラーが多くて、
「上がくっついた4が全部9に行っちゃって、手でやった方が早い」
と言ってるのを聞いて、私は4は上をくっつけて書くほうが好みだけど
手紙を書くときだけは4を7セグのデジタルのように丁寧に書いた。
郵便番号も3桁から7桁になって、増えた4桁分について、
「分からんなら書かにゃいいのに、でたらめ書く人がおって困っちゃう」
と言っていたけど、今の仕分け機は読み間違いもないだろうし、
郵便を出す方もたいがい印刷だから番号もそんなに間違わないだろうし、
仕分けはあの頃より楽になったのじゃないだろうか。

宅急便と小包の競争が始まった頃には、
クロネコ、と聞くと父がクゥーと顔を歪めてみせるのが面白くて、
私はテレビや本や看板や、なんでもいいから黒いネコを見つけると、
「父ちゃん、クロネコ!」
と父に言い、その度に父もおもしろがって般若のような顔をしてみせてくれた。

局の人に草野球に呼ばれた、と出かけて行ったり、
局の屋上から花火が見えるから、と家族で花火大会の夜に行ったり、
食堂のN子というおばちゃんに名前を覚えられていて、
「食堂行くとN子に『〇〇さん元気〜?』なんて大声で聞かれて恥ずかしい」
と言っていたり、仕事は大変でもそれなりになじんでいたのではないかと思う。

父のいた郵便局は国営の時代だった。
民営化された今の郵便局で働いている人々は昔と比べてどうなんだろう。
引き出しにおやつが入っていたり、
屋上で家族と花火を見たりするだろうか?
そうだといいな、と思う。
郵便配達、郵便局、年賀状のニュースなどを見ると、なんだかなつかしくて、
うちの父も郵便局で働いてたんです、と心の中で話しかけてしまう。