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記憶の引き出しが開くタイミングが謎

その時は全然思い出せなかったのに、
後に思い出して、何であの時は思い出せなかったのか、と思ったこと2つ。

小学校からの帰り、あと少しで家というところを一人歩いていたとき、
後ろから自転車のおじいさんがゆっくり追い越していきながら、
「〇〇(名字)ちゃん、元気か?今も体育は苦手か?」
と話しかけてきた。誰?と思ってキョトンとしていると
にっこりしてそのまま行ってしまった。
家について母に言うと、
「変な人かね?でも、名前も体育苦手って知っとるのもおかしいね」
ということで私が思い出せないだけの知り合いだろうということになった。
祖母に「学校の先生じゃないのかね?」と言われて考えても分からなかった。

そのころどう考えても誰だかわからなかったのだけど、
何十年たった今考えると祖母の言った通り、小学校の先生だった。
担任でもなく教科担任でもなく、校長教頭でもなく、
でも全校児童とも接点のあった、あの◯田先生。名前も思い出せる。
やさしいおじいちゃんみたいな先生だった。
声をかけられた頃はもう退職された後だったような気がする。
よほど記憶力の良い先生だったのか、
記憶に残るほど私が体育のできない子だったのか・・・。

今思い出せるのに、なんであの時いくら考えても分からなかったんだろう?
あの時思い出せたら私もにこっとして挨拶ぐらいしたのに。
あれから二度と会うことはなかった。

2つめは、大学生の時。下宿の大家さんは祖父くらいの年代のおじいさんで、
たまに会うと「困ったことあったら言ってくださいよ」とか
「真面目ですなあ。ちゃんと授業に出ていて」とか声をかけられた。
もうじき卒業という頃、
「〇〇さんは〇〇出身でしたな?〇〇の工廠は戦争中、空襲はなかったですか?
ずっと気になっていて。知っておられますか?」
と尋ねられ、とっさに「なかったと思いますけど」と言うと、
「ああ、よかった。お友達が大勢行ってたから」
と本当にほっとした顔で去っていった。

大家さんが立ち去った後すぐに、
出身地の工廠の空襲のことをバッと思い出した。空襲あったわ!
大家さんに嘘を教えてしまった!と冷や汗の出る思いがした。
地元では小学校でも習うし毎年慰霊の行事もあるし、当たり前の知識なのに、
なんでさっき思い出さなかったのか。
学徒動員も含めて大勢亡くなっているのに。
もしかしたら大家さんのお友達も被害に遭われたかもしれない。

そのあと、訂正する機会もないまま卒業、大家さんとはそれきりになった。
本当のことを知ったら大家さんは悲しかっただろうし、
あのとき正確に歴史を伝えられたらよかったのかどうか、なんとも言えない。
あの時まで知らなかったのだから、工廠に行ったお友達の消息は聞いてなくて、
きっと戦後は連絡も取れてなくて、連絡先も知らなくて、
健在だったとしても調べようもないだろうし、
お友達が何人くらい工廠に行っていたのか知らないけど、
誰かが空襲に遭ったかもと心痛めるよりは、
私が間違えてよかったのかもしれない、と思うしかない。
もしも大家さんがあの世へ行った時にお友達と話が食い違ったらごめんなさい。