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生きづらいのに長生きしたいの?

このまえ夫に言われた。
「お母さん、生きづらいとかいうくせに長生きしたがるよね。どういうこと?」

え?私そんなに生きづらいって言ってたっけ?としばらく考えた。生きづらいという言葉はあまり使った覚えがない。たぶん、私が潔癖症だったり心配症だったり、夫にとって本当にどうでもいいことで「ああ〜」ってなってることが多いから、そういう印象なのかな。
長生きしたいのは、そりゃ、こどもが心配でできるだけ先まで見守りたいし、自分自身もやりたいことがたくさんあるから人生の時間は長いほどいいと思う。

「だって読みたい本たくさんあるし、何回でも聴きたい音楽もあるし、ドラマの続きも見たいし、新しく面白いものも出てくるんだからなるべく長生きして先の方までたくさん見たいよ。ちょっとでも長生きすればそれだけ分の未来が見れるんだもん」
って言ったけど、夫は納得いかないようす。

「『生きづらい』=『死にたい』じゃないんだよ。生きづらいは、不便だけど不幸じゃない、っていう感じ。だからこどもも生きづらいタイプかもしれないからって、産まなきゃよかったなんて思わないし、こどもと似たタイプの孫が生まれたらおもしろいな、って思う」

一生懸命話したけど、夫はどうもピンとこないみたいだった。
夫のほうが、私やこどもより生きる上での制約が少ないというか、学校は楽しかったらしいし、フルタイムで働いても疲れ果てることはなく、会社行くのも家に居るよりいいみたいだし、食べ物も大体なんでも食べれて、虫歯になったこともなく親知らずまで全部の歯が生えそろい、裸眼で生活に不自由なく、潔癖症でも心配症でもなく、車も運転できて、電話かけるのも人と話すのも平気で、生きやすいんじゃないの?私たちよりは、と思うのだけど、なぜか夫は以前から、長生きは別にしたくないと言っていて、そっちのほうが私にはよくわからない。

私の父は、晩年、人工透析をしていて、透析を始めると多くの人が鬱に陥るらしく、父も最初はすごく暗くなって、その後も数年は「早く死んだほうがいい」と毎日のように言っていたけれど、その後、孫が生まれたりしてあんまり言わなくなった。
死んだほうがいいと言っていた時期でも、本当に早く死にたいかというとそうじゃないんだろうな、と感じるところがあった。なんだかんだ言いながらも、次はどこの温泉に行きたいだとか、このCDが欲しいだとか、晩ごはんにあれを作って食べようとか、そういうのはずっとあって。

病や、障害や、何かしらのマイノリティ要素があったりすると、無いよりはいくらかつらいところはある。でも直ちに100%つらい気持ちに埋め尽くされるわけじゃない。いろんな程度があるし、楽しいこともいろんな分量であるから、生きづらい点があるからって、楽しみがあればやっぱり長生きはしたいと思う。明日このパンを食べよう、くらいの小さな楽しみであっても。