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命日

9年前の今日、親父は闘病の末に息を引き取った。
海外での商談を早めに切り上げて帰る飛行機の中、何となく間に合わないかもと感じ、到着した際に始めに受信したショートメッセージでその報せを確認した。「死に目に会えなかったか、、、」

1週間前、まだギリギリ意識が在った親父に、手紙を書かなければならないと直感的に感じ、生まれて初めて親父に手紙を書いた。
「正直、あなたのようにはなりたくなかった」と。
今思い返すと、死を悟ってその時を待つ親父に、なんて残酷な言葉を書いたのかと思う。だけど、どうしても書いておかなければならないような気がして、ありのままを書いた。

システムエンジニアだった親父は、いつ見ても仕事仕事仕事、、、昼夜問わず仕事をしていた。その姿は、とても楽しそうには見えなくて、その背中は何となく辛そうで、「こうはなりたくない」とずっと思っていた。

親父に遊んでもらった数少ない記憶は、兄弟とともに川に連れて行ってくれたこと。兄弟みんなで川で遊び、薪を集めて焚火をして、帰りにマクドを買って帰る。年に1~2回?その特別なルーティーンがたまらなく好きだった。
親父はというと、ただ河原に設置した椅子に座ってゆったりと僕たちを眺めているだけ。たまに「そろそろ火を起こすからみんなで薪を拾っておいで」と子供たちに命令をする。その時の親父の表情がどうしても思い出せない。思い出せないけど、きっと朗らかな笑顔だったんじゃないかなと思う。


自分が大人になり、仕事をはじめると昼夜問わず我武者羅に働いた。気が付くと、あれだけなりたくないと思っていた親父と同じように働いている。
なんとなく社会の仕組みがわかってきたころ、ふと、親父の名前を検索してみる。システムエンジニアだった親父の功績が引退してもう相当経つのに、沢山ヒットした。一番印象に残ったのは、「某キャラクタービジネスの企業の経理処理を全てペーパーレス化。多数の反対を押し切り、年間30階建てビルに相当する紙を削減」というものだった。


最初で最後の手紙には、「正直、あなたのようになりたくなかった。~~中略~~ でも今は確実にあなたの背中を追っている。いつか立派になって必ず追い越すから、それまでどうか見守っていてほしい。」と書いた。
空港からそのまま実家に直行すると、冷たくなった親父のそばに沢山の家族の写真や花と共に、書いた手紙が置かれていた。ギリギリ意識のあるときに読まれた手紙は、ところどころインクが滲み、殆ど読めなくなっていた。
手紙は親父と一緒に棺に入れることにした。

「まだ若すぎる。そんな簡単な業界じゃない。」
起業することを大反対した親父は、多分自分が諦めないことも良く分かっていて、「保証人には絶対にならないからな!」といいつつも、創業時の土地を借りる時にはしっかり保証人になってくれた。

やるからには絶対にバッタ屋で終わるな。やるなら世界を変えろ。
それと、会計は絶対にごまかすな。税金はちゃんと払え。公明正大に生きろ。

※バッタ屋とは正規ルートを通さずに仕入れた品物を安値で売る店や商人のこと

そんな親父の言葉を胸に16年間、とにかく我武者羅に前に進んできた。本当に山あり谷ありで、何度も窮地に立たされたけど、一回も辞めようとは思わなかった。あの時、大反対されたうえ、やるなら世界を変えろ。という親父と交わした究極の交換条件が無かったら、はたしてここまでやれただろうか?


会社から少し車で走ったところにあるきれいな滝
最近は犬も参加

7月17日は毎年子供たちを連れて川に行く。最高の鹿児島の自然に心から癒されて、あらためて自分の仕事はこれを次の世代へとずっと繋いでいくことだと感じ、冷たい水に唇を震わせてはしゃぐ子供たちを眺める。
あの時の親父に自分を重ね、「親父、やっぱりめちゃくちゃ笑顔だったんだな」と当時を振り返る。

親父、大丈夫。まだまだ背中を追っかけてるけど、ここまでどうにか公明正大を貫いてきた。もうバッタ屋なんて言われない。正直まだまだ世界は変わってないけど、確実に近づいているからもう少し待っててくれや。
おかんが元気なうちにはしっかり結果を出すからさ。

一番下の娘を膝にのせて、庭で満点の星空を眺めながらゆっくり動く人工衛星に立てる毎年の誓い。さて、明日からも頑張ろう。


スマホ写真。夏は無数の人工衛星が見える。もう少しすると天の川も。


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