杖の役割

足を骨折したり怪我をして杖をついたことがありますか。
その時、杖はどちらの手に持ちましたか。

弱った足、怪我した足、痛みのある足の方だと思いませんか。
でも、逆なんです。
元気な足、怪我をしていない足、痛みのない足の側の手で杖を持ちます。


おめめどうという自閉症支援ツールの会社があります。
僕はそこで障害支援の「きほんのき」から教わりました。

教わった、といっても、その周りをウロチョロしていただけですが。

おめめどうの考え方に「杖の役割」というのがあります。

書籍にもなっています。

元気な足、動く足が不安なく動けるように支えると、
弱った方の足はそれに引きずられるようについてきます。
ところが、弱った方の足をいくら支えたところで、
そちらに体重を安心して預けることはできませんから、
元気なはずの足まで不安定になります。

障害支援や教育分野でも、僕はこの「杖の役割」という考え方を基本にしています。
僕のやっている塾HI-FIVEは、さまざまな事情があって、
なにかしら「うまくいかないこと」を抱えた方が多くおられます。

保護者、あるいは本人も、苦手なこと、嫌いなこと、不得手なことをなんとかしたい、という気持ちから、苦手なこと、嫌いなこと、不得手なことの方ばかりをみて、そちらばかりについて考えて何とかしようとされます。

ですが、苦手なことは苦手なことなんです。不得手なことは不得手なことなんです。
もっとも、何かの拍子に苦手が得意になることもあるでしょうが、
無風の海にいくら帆をあげても、船は進みません。

ですが、たとえば波や潮流でも、少しでも船が動く向きがあるのなら、それが追い風であれ向かい風であれ、船は動くことができます。帆船は追い風だけでなく、向かい風でも進むんです。

せっかく、風が吹いているのに帆をあげず、
無風のところで一生懸命帆をあげて、「やっぱりダメだった」と言うことになりかねません。

「今日は進めるだろうか」「明日は風が吹くだろうか」ずっと周りにそういう視線を向けられながら帆をあげる気持ちはどんなものでしょうか。

入江を離れたらいい潮目があることは分かっているのに、「こんな状態では外海には出られない」と言われながら帆を上げる気持ちはどんなものでしょうか。

「得手に帆をあげて」という本を中学生の頃に読みました。
尊敬する本田宗一郎の本です。
出来ないことをなんとかしようとするのではなく、
得意なところ、強いところで帆を上げる。

すると、それに引っ張られて苦手なところ、弱いところもついてくる。場合によっては代わりに誰かが喜んでやってくれる。

そしてそこで帆をあげることを両手をあげて応援してくれる人、信じてくれる人を、人は信頼します。

「自信」っていうのは、「自分を信じる」と書くけれど、
自分のいいところを見つけてくれたり、応援されたり、信じてもらったりした経験の積み重ねがあってはじめて「自信」につながるはずです。

ダメなところばかりを見られて、自信がつくはずもないし、安心できるはずもないんです。
痛い足の側に杖を持たないのと同じ。

だれかの「杖の役割」になれたらいいな、と日々思っているのであるフィ。

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