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小説『ファン・ゴッホのパリの2年間』…… を書いています

『ゴッホの愛したクレポン』と『幕末の浮世絵が印象派を創った』の論文をnoteに載せていますが、論文なので読むのが大変なのか、それほど読まれていません。そこで、小説にしたら読みやすいのではないかと挑戦しています。
どなたか、漫画化、脚本化など考えてくれましたら送りますからコメントをお願いします。
さて、小説を書く才能がないのは、これまでさんざん書いたので痛感しています。
そこで、アンリ・ペリュショ以上に事実を重視して書こうと考えました。
アンリ・ペリュショも『ファン・ゴッホの手紙』を基本として書いていますが、創作のところはおかしいのがかなりあります。
小説ですから、おかしくてもそれはフィクションで済みます。
私もかなり創作は入れると思いますが、それでもなるべく創作部分はなくそうと考えています。
とはいっても、ファン・ゴッホを少しでも勉強している人はわかると思いますが、画家となってパリにフィンセント(ファン・ゴッホ)が来たときは弟のテオと同居します。
つまり二人の出しあった手紙はないということで、この2年間だけはほとんど情報がないのです。
だから創作で書くしかないということなのですが、それでも調べればかなりの情報はありますからそれを頼りに創作と言うより推理力を入れて書くつもりです。
アンリ・ペリュショ以外でもファン・ゴッホの伝記を書く人はそれなりにいます。
それは、日本人も含めてです。
ただ、日本人が書いた伝記は、どうも情報が少ないか、間違っている箇所が目立ちます。
それに比べ、欧米人は未公開の手紙などを、おそらくファン・ゴッホ美術館に行って調べ、それらを載せてくれますからとても参考になります。
それでも、日本の研究家は浮世絵とクレポン(ちりめん浮世絵)に関しては本家なのですから、それをたくさん載せて欲しかったです。
これらも欧米人の方がそれなりに載せています。
最近では原田マハ氏の『たゆたえども沈まず』がファン・ゴッホのパリ時代を書いていますが、これは完全なフィクションなので、この時代にいるはずのない画商とか、この時代、浮世絵を扱っていない林忠正とか、自殺した拳銃は発見されている事実などが違っていたとしても、小説を面白くするためなんだろうと理解できます。
しかし、完全フィクションの『たゆたえども沈まず』とは違い、ノンフィクション的に書いたファン・ゴッホの伝記、もしくは小説があまりにもおかしな記述をしているとさすがに怒りが出てきます。
未公開の手紙を読まなくても、フランス語で書かれているオリジナルのファン・ゴッホの手紙を読めば分かる事実を完全に無視をしているのです。
とは言っても、私自身、しょっちゅう間違ったことを得意そうに書いているので人のことも大きな声を出して言えません、から小さな声では言いますが。
今の時点では、まだフィンセントがパリの北駅に着き、テオにルーブルで待つという言付けをポーターに渡し、二人が会ったくらいなところまでしか書けていません。
それも、何回も書き直しています。
まずフィンセントがクレヨンで書いた言付けですがほとんどの人は3月初めとしています。
ところがオリジナルの手紙では2月28日になっているのです。
2月28日でも3月1日でも大した意味はないと論文ならそうなるのですが、これが小説なら大問題です。
何故なら、1886年の2月28日は日曜日なのです。
ご存じのように欧米は日曜日に店を開けません。休息日ですから。
だからテオが支配人をしていたギャラリーは休みだと推測できます。
するとフィンセントはわざわざ日曜日にパリに来たのではないかと推理してしまいます。
これもファン・ゴッホのことを勉強している人は常識だと思いますが、フィンセントは『ブッソ・ヴァラドン商会』の前身グーピル商会を態度が悪くて首になります。
つまり、『ブッソ・ヴァラドン商会』のお偉方とはうまくいっていないから会いたくはないということです。
だからわざわざ日曜日に行き、テオが支配人をしているギャラリーの絵を見たかったのではないかと推理してしまうのです。
ところが、逆にルーブル美術館は日曜日オープンしていたのだろうか? という疑問も出てきます。
これはまだ調べてもわかっていません。
ただ、日曜日に何かの式典をしたようなのです。
このことを妻に相談したら、美術館は働きに行く場所ではないから日曜日もオープンしていたのでは、と答えます。
確かに、19世紀までは絵画と言うものは宗教の一部でした。
教会に行くと宗教画がたくさん飾っていますからね。
だから絵を見に行くのはミサと同じなのかもしれません。
そのことがはっきり分かれば、教会と芸術のつながりなどをここに入れることができるのですが、推理だけの今の状況だと無理なのです。
これも、ファン・ゴッホをかなり勉強した人はわかることなのですが、アカデミー絵画の大家ジャン=レオン・ジェロームはグーピル商会の創業者アドルフ・グーピルの娘マリーと結婚しているので、ジェロームは『ブッソ・ヴァラドン商会』ではとても大切にしていたと予想できます。
そして、ジェロームの印象派嫌いは有名なので、テオが印象派の絵を売るのを快く思っていなかった、と言うのは推理できます。
しかし、ジャポニスムまで嫌っていたかと言うと、それは違うと思ってしまうのです。
何故なら、ジェロームは日本の絵を描いているのです。

        Japanese Imploring a Divinity☟

元々ジェロームはオリエンタルの絵をたくさん描いていたので、ジャポニスムには興味を持っていたと思います。
そしてオリエンタルと言えば、フィンセントがパリに出た3月27日にギュスターヴ・モローの水彩画の展示会を『ブッソ・ヴァラドン商会』でしているのです。
この展示会でインドと思われる(オリエンタル)《聖なる象》が展示されるのです。

モローってアカデミー画家だけど、魅力ある絵をたくさん描いている。
そしてこの展示会はテオが支配人をしているモンマルトル大通り店で開催したのか、オペラ店でしたのか、まだわかりません。
小説としてはテオが支配人をしているモンマルトル大通り店でしたことにして書き進めますが。
もし、そうならば、この企画はテオが支配人なのですから中心者ともいえるのです。
私はよくモローとオディロン・ルドンを間違えてしまうのですが何となく絵が似ていると思いませんか?

          ルドン  ヴィーナスの誕生☟

何しろ論文ならば無視をしてよいことが小説だとそうはいきません。
細かいところまで調べないといけません。
だいたい、私はモンマルトル大通り店って、モンマルトルの丘のふもとにあると思っていたのですが、パリの芸術の中心地ともいえる場所にあったのです。
こんなことも論文ならどうでもよいことなのですが、小説だとかなり重要になるのです。
ある意味、この題の小説を書くということは、1886年から1888年のパリに旅をするようなものです。
今はネットがあるのでかなりその場で調べられることが多いです。
調べていくと、調べる単語が違うので今まで検索に引っかからなかったことまで出てきます。
そして新たなる発見をして、今まで間違ったことを書いていたなどと気づくことも、きっと多く出てくると思います。
そして、このパリの2年間で一番書きたいことは浮世絵とクレポンです。
特にフィンセントが開いたタンブラーンのクレポン展はほとんどの研究者が無視をしています。
ここから、ベルナールとアンクタンがクロワゾニスムを創り、それがベルナールとゴーギャン(主にベルナールなのだが)の綜合主義につながります。
だからとても重要なことなのです。
浮世絵やクレポンのことにしても1870年代にいせ辰をはじめとする輸入浮世絵の質の悪さが一時期、浮世絵人気を落としてしまったこと、それをビングなどが古浮世絵と中古浮世絵を日本から輸入して浮世絵人気が大爆発をすることなどが全く他の人の伝記などで出てきません。
そして、林忠正が浮世絵に注目するのは1889年でフィンセントがアルルに行った後だし、浮世絵を売り始めるのも1890年からなので林忠正とフィンセントを繋げるのは難しいです。
まあ、小説ですから、すれ違いくらいは入れたいですけどね。
とこんな感じで書いていきます。
おそらく半年、1年はかかるかもしれません。
完成したら誰か漫画にしてほしんですけどね。

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