梅干しと風船
大学生の頃、『幸福論』なる授業を受けたことがある。
「人が幸福を感じるとはどういうことか、そのために必要なことは何なのか」といった、当然答えなんてないテーマについて延々講義を受ける内容だった。
半年間ほどのカリキュラムだったが、残念ながら内容はほとんど忘れてしまった。
ただ、一つだけ妙に記憶に残っていることがある。
その日は「幸福」を感じる主体としての「自分」について考える回で、様々な学説の紹介を受けた。
「自己理解」に関する理論はいくつかあるが、中でも代表的なものが『梅干し理論』と『風船理論』と呼ばれるもので、この二説は比較され続けているということだった。
昔から「個人」にはアイデンティティの「core(核)」(=コア・アイデンティティ)が存在すると考えられていたが、これが『梅干し理論』だ。
コア・アイデンティティは生まれてから死ぬまで変わらないものであり、外部環境からどのような影響を受けたとしても決して揺るがない芯だ。『梅干し理論』はこのように、まるで梅干しの種のように強固な「核」を有する存在として「個人」を捉える。
「自己理解」の分野で長らくマジョリティであるこの理論には、もちろん今でも多くの人が影響を受けている。
思春期を迎えた若者たちがこぞって「自分探しの旅」に出掛けていくのも、恋人の意外な一面を見たときに「本当の彼はどっちなの」と戸惑うのも、根底にはこの『梅干し理論』がある。
「本当の私」「揺るぎない自己」の存在を無意識のうちに信じているのだ。
その一方で、「個人」とは様々な「アイデンティティ」の集合体である、と考える人が出てきた。『風船理論』の登場だ。
最近では「分人主義」に代表されるこの理論は、アイデンティティとはコア・アイデンティティに支えられているのではなく、人生において人が担う複数の「役割」やそれを果たすうえで修得・発揮する複数の「能力」などが、関係し合うことで成り立っている、というものだ。
「役割」や「能力」といった個人の構成要素は、まるで風船のように大きくなったり小さくなったり、時には増えたり減ったり、その存在には「揺るぎ」がある。
さぁどちらの理論が正しいでしょうか、
と言う話がしたいのではない。
ただ、どちらがより信じられているか、という話でいくと、最近は『風船理論』を信じる声が多く聞かれる。
(マジョリティかと言われれば、それはまだ分からないし、それほどでもない気もする。)
これは、社会的背景に大きく影響を受けていると思う。
昨今のように、多様性の発揮を良しとする風潮では、「個人」を、たった一つのコア・アイデンティティに代表された存在としてではなく、
様々な「役割」を果たすことでアイデンティティを豊かにしていくことができる存在として、
定義した方が、なるほど都合が良さそうだ。
例えば、息子の結婚相手が、
専業主婦ではなく会社員として仕事を続けたり、趣味のフルマラソンに向けたトレーニングをしていたりする。
もし自分が極端な『梅干し理論』信者であったなら、「お嫁さん」「既婚女性」ならば、「家庭を最も優先する個性」を確固たる芯として持っているはずだ、として、仕事や趣味はその芯を補足するものとして捉えるかも知れない。
すると、「お嫁さん」が「残業で夕飯が作れない」だの「トレーニングウェアにお金をかける」だの、家庭環境に少しでもダメージを与えることをし出すと、強い反感を持ってしまうだろう。
だけどもし、極端な『風船理論』信者であれば、結婚相手の存在を「お嫁さん」「会社員」「ランナー」などのあらゆる役割を持った人間として受け止めることになる。「家庭を快適に整えたい気持ち」も「仕事を通じて価値を提供したい気持ち」も「走ることで心身の健康を保ちたい気持ち」も、どれも本当で、同時に実現したい感覚を信じられるだろう。
だから今は『風船理論』が受け入れられるやすいし、広がりやすい。
言わずもがな、「だから『風船理論』が正しい、素晴らしい」、と言いたいわけじゃないのだけど。
大切なことは、私にとって、大切な人との関係性にとって、
どちらを信じた方が心地よいか、ということだと思う。
梅干しか風船か。
私にとっては、断然、風船だ。
「本当の自分」がどこか深いところに眠っているわけじゃない。
「揺るぎない芯」が私を支えているわけじゃない。
「会社で上司と議論する私」も「一人で読書する私」も「子どもにご飯を食べさせる私」も、
その場面で抱くあらゆる感情も、全てが「自分」一部分だ。
それは揺るぎがあるもので、日々変化する。
そう信じていた方が、私には生きやすい。
あなたにとっては、どうだろう。
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