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あなたに見せる私を、私は選んでもいい

「あなたそんな人だったっけ?」と不思議そうな顔をされることがたまにある。
そんな時に感じるのは、前回はどんな自分を出していたのだろう、という興味だ。

物心ついた頃から、自然と自己表現の使い分けをしていたように思う。
そんなに大げさな事ではなく、「先生の前では優等生風に」「友達の前では冷静に優しく」「親の前では甘えてワガママに」「親戚の前では子どもらしく朗らかに」のように、きっとこの場が丸く収まるだろうという役割を果たすべく、自分の中の該当する自我を選んで出していた。
きっと誰しもが多少は行っていることだろう。

自己表現の使い分けは言ってみれば私の生き方そのものなのだけど、年齢を重ねてくると「裏表がある」私に対して様々なことを言う人が出てきた。
一番多かったのは、「もっと自分を出していいよ。もっと本音を言っていいよ」という類のものだ。

当初は私も自己表現について今のようにあれこれ考えていたわけではなく、「あれ、私この人の前では自分を出せていないのかな。本音で話せてないのかな」と戸惑うこともしばしばあった。

私の友人の中には、誰に対しても「ありのまま」の自分でいることを信条とする人も少なからずいて、つまりそれは「媚びない」とか「思ったことをストレートに言う」とかと同義の心掛けだったようなのだけど、
そういう友人からすると、どうにも私は焦れったく、さも生きづらそうに見えるようなのだ。

その後、敢えて毒を吐いてみたり、偽悪的に振舞ってみたり、自由奔放に見える様に態度を変えてみたりしてみたこともあるが、言わずもがな逆に息苦しい。今思うと、別に友人達もそういうことを求めているわけではなかったと分かる。
結局、みんな、自分が見たい私を好き勝手に注文しているだけだと思うことにした。

人には色んな特徴がある。その特徴は生まれながらの性格や、育ってきた環境からなる価値観などから形づくられていて、日々変わったり増えたりしていくものだ。

数ある特徴のうち、気づかないうちに外に出ているものもあれば、その時に応じて出すように、もしくは出さないようにコントロールしているものもある。

仲の良い友人の前であっても、そこが家の中なのか公共の場なのかで当然出せる内容は変わるし、たった1人でも第三者が加われば表現できる特徴は大きく変わる。
しかも、こちらが同じ特徴を出しているつもりでも受取手によって解釈が違うことすら大いにあるのだ。

それは「裏表がある」とも言えるだろうが、「自由な自己表現の一環」だとも思うのだ。

人の目を意識しすぎて自意識に雁字搦めになっていても、なりたい姿に囚われて演じてしまっていても、本音と建前を使い分ける自分に気づいても、何ら恥じることはない。
相手に応じて出す部分が変わっても、私の一部であり一側面であることには変わりはないのだ。
本当の自分、ありのままの自分、自分の本質、などなど、言葉尻に苦しまずに、その場の状況や相手によって表現を自由に選んでいいのだ。

あなたに見せる私を、私は自由に選べる。
その結果どう思われるのか、どう評価されてどう取り扱われるのか。甘んじて受け止めなければならないことを、ちゃんと知っていればいいのだ。

#生き方 #自己実現 #分人主義

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