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貝料理専門店ゑぽっく(大阪・心斎橋)

「長谷川さんって、本当に綺麗な目をしてますね。きっとお母さん美人なんやろなあ」
背筋の伸びた女が、鯛と貝の吸い物を美味しそうに啜りながら言った。

脳裏に、またあの光景が思い浮かんだ。水を汲みに台所に行くと、その隣のリビングとは到底言えない6畳の和室で、母が1人テレビを見ている。蛍光灯の一つが切れ、部屋は薄暗い。友人たちの母親とそう年齢は変わらないはずなのに、肥えて醜い母。俺に気付かず、老いて酔った父が母の元に向かっている。父は、母の服を脱がし、醜い肉を触る。母は何も言わない。

「いや、ただの太ったおばちゃんよ」
「えー、そうなんですか?昔はきっと綺麗やったんですよ〜」
薄暗い、けれどあの時の薄暗さとは全く違うカウンター席で、いかにも育ちの良さそうな美女たちが談笑している。笑い声が耳にこびりつく。うちの母は普通とは少し違うのだと気付いたのは、地元の商業高校に入ってからだった。

「はは。褒めてくれてありがとう。あ、次何飲む?」
「メインは牡蠣鍋でしたっけ。そのほかも貝だから白が良いですかね。あ、ピーロートある。これが良いです」
さも慣れた雰囲気でワインを選ぶ女は、うちの母親はもちろん、元妻とも全く似ていない。同じ滋賀県出身であるはずなのに、品があるし育ちの良さが滲み出ている。

「わー。綺麗。何から食べるか迷う。長谷川さんのお店のセレクト、素敵ですね。元奥さんもグルメだったとか?お仕事柄お付き合い?」
「元嫁はこういう感じの店苦手で。まあ付き合いはあるかもしれんな」
「いや本当尊敬します。その若さで独立されてしかも忙しくされてて」
「いやいや。カナちゃんも充分すごいやろ。働きながら大学院行ってたとか普通できんて」
「いや、私はやりたいことやってるだけなんで」
最初は、綺麗な人だな、くらいにしか思っていなかったが、女のこれまでの人生を聞いて少し引け目を感じてしまった。メガバンクに入ったものの、やりたい勉強があって働きながら大学院に通い、研究で知り合った社長に誘われコンサル系の会社に転職したという。大学のことはよくわからないけれど、自分にはできない生き方なのは確かだ。頭の良し悪しもそうだが、生まれつき恵まれた人でないと選ぼうと思えない世界だと思う。

「貝だけのお造りって新鮮」
そんな女が、自分のセレクトした店で喜んでくれている。あの薄暗い6畳の部屋。音を立てないようにしても軋む階段。父の酒臭い息。ただテレビを眺めているだけで1日を過ごしていた母。学歴をつけることはかなわなかったが、猛勉強の末に難関資格に合格した若い日の自分に再度感謝する。俺は、抜け出せたのだ。

「そんな喜んでもらえて嬉しいわ。でもカナちゃん、慣れてるやろ?前の旦那さんとはどんなデートしてたん?」
「仕事で色々食べに行くことは多いですけど。ああ、前の人はあまり食に興味なくて。そもそも、飯は女が家で作るもの!みたいな。こういうお店は新鮮です」
「そうなんや。それはちょっと悲しいな。まあこれからはたくさん美味しいとこ行こうな」
「本当ですか?嬉しい」
笑顔だけが、少し歪んでいる。
まだ正式には2回目の食事だが、LINEで何となしにお互いの気持ちは確認できた。決めるなら、今日だと思っている。早すぎるということはきっとないだろう。大人だからこそ、タイミングが大事だ。

「わー、凄い!見ただけでぷりぷりなのわかりますね」
「よかった。牡蠣好きって言うてたから」
「冬は、牡蠣と白子ですよ!」
「はは。酒飲みやなあ」
「いや、飯好きです」
鍋の熱さで女の整った顔が火照っている。
「あー。幸せ。いいんかなあ」
牡蠣を食べるなり女がそう言う。
「ええやろ。普段頑張ってるんやし。あと、俺も今めっちゃ幸せやわ」
「やはり美味しいもの食べてる時が1番幸せですよね〜」
「そうやなくて」
女が不思議そうな顔をする。これは演技なんだろうか。わかっているくせに。
「ちょっと今日話したいことがあって」
「はい。店、変えます?」
「うん」

またあの光景が思い浮かぶ。可哀想な、父と母。この女がうちの両親を知ったらどう思うのだろう。いや、きっと出自なんて関係ない。今この瞬間、俺の年収はこの女の4倍くらいはあるだろう。何も引け目を感じることはないのだ。早く抜け出さなくては。早く。


貝料理専門店ゑぽっく
大阪 心斎橋
貝料理 

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