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文明論の凱略#003/「自分発見」という最大の発明

文明とは言語わけても文字を用いて世界を解明するプロジェクトである。
文字は思考を可視化させた。
例えば「文字は思考を可視化させた。だからいまこの思考が読者に伝わっている」という文章によってワタシの思考は可視化され読者に伝わっている訳だ。

ここまでが前回までざっくりとしたおさらい。

今回から文明黎明期を語る上で重要になる「自、死、字、知(宗教)」という4つの「シ」について述べていこう。
今日はまず「自分発見」という文明史を語るために欠かせない特大の発見を観てみよう。

自分発見


人類最大の発見は「自分」である。

大昔、人々は地面に這いつくばって生きていた。
およそ生活しているとは言えないような姿格好だ。
現代人から見ればそれは人とは言わないかもしれない。

両手両足をくまなく地面につけて、他の生き物と命のやり取りを常時行いながら生きていたのだ。
この時、人々は「自分」という概念が皆無だった。
そんなバカなと思われる読者もいるかもしれないが、大昔の人類には「自分」という存在概念がなかったのだ。
なぜならば自分を知る手掛かりがなかったためだ。

我々が自分を知る手掛かりにしているのは文字通り「手」である。
だから「手掛かり」というのだ。
日本語というのはよく出来ており、文明というものの集大成なのである。

復習すると「文明とは文字を用いて世界を解明するプロジェクト」であり、文字情報に世界が埋め込まれているのは理の必然なのだ。

さて我々が自分という存在を知る手掛かりにしているのは「手」である。

何故だろうか??

手すなわち、
両腕は自分から半ばはみ出しており、自分が可視化されているからだ。



両腕可視化フリーハンドの衝撃

人類が四つん這いで地面を這っていた時代。
ただ他者だけが視界に入っており、自分を見ることはかなわなかった。
だから「この真ん中に何かがいるのでは?」という漠然とした認識はあっても、それが「自分」だという認識はなかったのだ。


 世界のど真ん中という最大の謎

やがて人類が四つん這いから二本足歩行へと進化した時。
人類は2本の腕を宙空に浮かせられるようになった。
すると2本の腕が自分の視界に入るようになったのだ。

ここから「この真ん中に何かがいるのでは?」という漠然とした認識が、
「この真ん中に確実に何かがいる!」という確信に変わった。


それまでも、
周りには裸体の人々は見えていた。
要は世界に人間がいるということはわかっていた。
だが世界のど真ん中つまり自分の位置だけは見えなかったため、世界のど真ん中だけが「謎」になっていたのだ。

その謎が「両腕の可視化」により氷解したのだ。
世界のど真ん中には両腕の持ち主がいるはずだからだ。


 世界の真ん中=自分という発見

腕というものは周りの人々にもついている。
そして腕をつたっていけばそこには肩からボディがある。
これは四本足時代から一目瞭然でわかっていた事実だ。
だが四本足時代には自分の腕だけが見えなかったのだ。
だから腕から連想して世界の真ん中に自分という人間がいるとは想像できなかった。

しかし二本足歩行に進化し、己の両腕を視野にとらえた人類はそこから連想して「世界の中心にも人間がいる」と解釈できるようになった。

ここに人類は「自分」を発見したのだ。




自分 = 自を分ける

直立二本足歩行によって自分の2本の腕も見えるようになり、そこから類似推定して「世界のど真ん中には人間がいる」ということを人類は発見した。

それまで世界の中に溶け込んで一体化していた「自」おのれを、世界から「分ける」ことに成功したのだ。

「自」を「分ける」ことに成功したので「自分」といったりもする。
こうして「自分」という概念が人類史に登場したのだ。



「自分のいる世界」という物語 =「文明」

人類は直立二本足歩行でオノレの両腕が可視化され、
それを手掛かりにして、
世界から、その世界のど真ん中にあって唯一見えない存在を分けることに成功した。
その世界のど真ん中を「自分」と名付けたのだ。

人類はこのことにより、
世界と観測地点を分けたのだ。
自分という観測者がこの世界には存在し、この自分という観測者が世界と他者を観測しているという「物語」の幕が切って落とされたのだ。

この物語のタイトルを「文明」という。




自分という謎

世界の中心に「自分」が存在するという仮説は、およそ人類全般に共有されているものだ。
だが自分は唯一「オノレ」からは見えない存在であって、「よく分からない」存在だ。
直立二本足歩行によって、「世界の真ん中に何があるのか?」という大いなる謎を解き明かし、「自分発見」の偉業をなした人類だったが、すぐさま次の大いなる謎に直面した。

その大いなる謎とは「自分とは何か?」である。
世界の中心に自分なるものがいると仮定してみたものの、自分は唯一目で見ることが出来ず、謎の存在であることに変わらなかった。
人にとって視覚情報というものは情報の王様であり、それを唯一得られない自分という存在は「大いなる謎」であり続けているのだ。



文明とは自分を解き明かすプロジェクト

「自分とは何か?」

これは大昔から2024年現在まで連綿と継承されている「大いなる謎」である。
1990年代から「自分探し」というフレーズが喧伝されているが、その何千年も前から我々人類は「自分探し」を行ってきたのだ。

世界は目で見える。
だから世界について知ることは相応に容易だ。
だが自分は目で見えない。
だから自分について知ることは極めて困難だ。


冒頭で「文明とは文字を用いて世界を解明するプロジェクトだ」と大風呂敷を広げた。
だが直近でワタシは「文明とは自分を解き明かすプロジェクトだ」と宗旨替えしたように見える。

しかしこの二つは概ね同じことを云っているのだ。

「文明とは文字を用いて世界を解明するプロジェクトだ」
「文明とは自分を解き明かすプロジェクトだ」


世界は目に見えるためそれを解明することは相対的に容易である。
他方、
自分は目に見えないため自分を解明することは相対的に困難だ。

だから解明するのが困難な自分を解明してしまえば、世界の解明は成就したと言える。
自分を解き明かせば自ずと世界は解き明かせるという論法だ。
したがって「文明とは自分を解き明かすプロジェクト」だと言えるわけだ。





言語という自分を解き明かす優れたツール
文字言語発見による文明の幕開け


文字は思考を可視化できる。
いまも文字が思考を見える化できるという意見をこうして読者の眼球にシュートさせてもらっているではないか。
裏返せば文字は自分の思考を可視化・伝達するための優れたツールたり得るわけだ。


「自分の思考はどうなっているのか?」
思い切って言い換えれば、
「自分とは何なのか????????」

これを伝えることが、言語わけても文字言語によって可能になったのだ。
「自分とは何なのか???」
をお互いに伝え合い、自分とは何かを徐々に解き明かしていく。

文字発明
文  明

この自分にまつわる謎解き文明が直立二本足歩行に伴う自分発見と同時にスタートしたのだ。


こうして文明の幕は切って落とされた。

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