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1.2億人のダメメタな日本人


アメリカ人は「あたいらアメリカ人だから仕方ないねえ」とは云わない。
まあまずもって云わないはずだ。
他方、
日本人はことあるごとに「あたいら日本人だから仕方ないねえ」と日本人であることを人身御供にして諦観したり自己正当化ないし誤魔化しを図る。
なぜ日本人だけは「日本人だから〜〜」とメタ認知もどきをしたがるのだろうか。
日本人が同調圧力に弱いセグメントだということは下の記事が詳しいのではないか。


話しを戻して、
なぜ日本人だけは「日本人だから〜〜」とメタ認知もどきをしたがるのだろうか。
今日はそこら辺りに思索の糸を伸ばしてみよう。

国家建設ナショナルビルディングが上手く行きすぎた?

明治維新以来、大日本帝国は国民意識の刷り込みを行なった。
同じ日本人であるという仲間意識を刷り込んで徴兵を容易にし、戦争を行える国体をつくるためだ。

この国家建設・国民一体感の熟成が上手くいきすぎたのでは、という仮説はどうだろうか?

日本は特に分断線がない珍しい国家だ。
分断線というのは憎しみあったり妬みあったり仲間意識を持てない勢力が国内に内包されているということ。
例えばアメリカであれば、
スペイン語話者と英語話者には明確な分断線があるし、プロテスタントとカトリックの間にも確実に溝がある。
例えばドイツであれば、
旧東ドイツの人々と旧西ドイツの人々の間に価値観の違いがあり、分断線となっている。

翻って日本はどうだろか?
関ヶ原の戦いで東軍だったか西軍だったかで憎しみあったりするだろうか。
壬申の乱でどちらについたかで未だに群れを決めているだろうか。
言語も沖縄と北海道には土着の言葉もあるが、日本語との両刀使いになっているので分断線とまでは言わないだろう。
こういうように考えてみると、
日本にはこれといった分断線はないんじゃないだろうか。

それが明治維新前後の国家建設が上手くいきすぎたことに起因するのではないか。
そういう仮説を立ててみたんだ。



国家建設の上手くいきすぎが「あたいら日本人だから〜〜」の原因?

国家建設が「上手くいきすぎた」と書いた。
国家建設が「上手くいった」のではなく「上手くいきすぎた」と書いた。

どういうことか?
説明しようっ。

国家建設が普通に上手くいった程度であれば「あたいらは日本人だから〜〜」とは云わない気がするからだ。
なんともアンニュイな根拠だが「あたいらは日本人だから〜〜」と云う程にまで日本人意識が浸透しているのは「国民意識の刷り込み」があまりに上手くいったからではないかなと思うんだ。
この「国民意識の刷り込み」を言い換えたものがほぼほぼ「国家建設」となる。
だから明治維新によって大日本帝国は国家建設が上手くいきすぎて、国民意識の刷り込みも上手くいきすぎて、分断線が完全に消えた。

だから、
「あたいらは日本人だから〜〜」とダメな時すらも日本人意識を持ち出すまでに国民の紐帯が強くなったんじゃないかなと思う訳だ。



ダメメタ認知の日本人


「フランス人は考えてから走り出す。
 イギリス人は走りながら考える。
 スペイン人は走り終わってから考える」

これは欧州3国の国民性を比較して揶揄したそれなりに有名な風刺だ。
フランス人は理屈っぽく、イギリス人は理屈と行動のバランス型で、スペイン人は何も考えてないという含意である。

「国際会議で常に俎上にのぼる議題がある。
 それはインド人をどうやって黙らせるかと、
 日本人をどうやってしゃべらせるかだ」

これはインド人と日本人の国民性を比較して揶揄した風刺だ。
インド人は雄弁を突き抜けたおしゃべりで日本人は寡黙をこじらせた引っ込み思案だという含意である。

このように国民性の表出というものは他国との比較でなされるのが専らである。
ひいては第三者がそれを行うのが常だと言える。
だが日本人は違うのだ。

「あたいら日本人だから、空気に流されやすいんよね」

といった具合に他者との相対評価ではなく絶対評価で自己定義する。
ひいては自分たちがそれを行うのだ。

変わっている。
日本人は変わっている。
グローバルスタンダードから見てこの日本人の「あたいら日本人だから〜〜」というダメ認知は唯一無二と言ってもいいほど変わっている。


 日本人の特徴纏め
①日本人は相対評価ではなく絶対評価で自己をメタ認知する
②日本人だけは他者から評価されるのではなく自分で評価しちゃう



規律と日本人と新世界

「ドイツ人は社会がぶっつぶれるまで規律を守る。
 日本人は社会がぶっつぶれる手前まで規律を守る」

これも国民性を比較した風刺だ。
規律遵守大国の双璧たるドイツと日本を比較しているが、ドイツの場合は生真面目に規律を遵守して社会がぶっつぶれるまで遵守しまくると揶揄している。
実際にそうなのかは別にして、なんとなくドイツ人にはそういったイメージがあるのも事実だろう。
他方において日本人は「社会がぶっつぶれる手前まで規律を守る」だから、ドイツ人よりも加減を心得ていると世界からは認識されているようだ。

そうはいっても日本人に規律を生真面目に守るという国民性があると思われているのは事実だ。
確かに「あたいら日本人だから規則は守っちゃうわね」ってな具合で自分たちでも生真面目さを自虐揶揄したりする。

だがどうだろうか。

先ほど著者は20年ぶりに通天閣が聳える新世界をぶらぶらと歩いていたのだが、自転車ボディを改造したと思しき車が国道級の車道を走行しており、「ブォォォォォオオンンン」というオッサンの唸り声がエンジン替わりに響いていた。
 (※編集部注 新世界とは大阪にある準・治外法権エリア)
これでは日本人だから規律正しいとはとてもいえまい。
「あたいら日本人だから規則は守っちゃうわね」とあの「ブォォォォォオオンンン」を前にして言ってみやがれ。


島国だから自虐根性説?

「島国だから日本人には自虐意識が根強い」とする向きが昔からある。
だが島国だから自虐意識が強くなるものだろうか。
例えばイギリス人は列記とした島国の住人だが自虐意識とは程遠いメンタルの持ち主だ。
例えばアメリカ原住民たるインディアンも島国の住人だがインディアンの自虐ネタなんぞ聞いたことねえぞ。

恐らく島国と自虐精神を結節する合理的な論理はガリレオを100人連れてきても構築できないんじゃないだろうか。




吉本新喜劇紋切り型説

「あたいら日本人だから〜〜」
これはもしかしたらネタとして分かりやすく、かつおいしいから根付いたんじゃなかろうか。
吉本新喜劇では何度も何度も面白くないネタを繰り返しやってるうちに、いつしか面白くなるという王道パターンで数々のお約束ネタを編み出してきた。
これと同様に明治維新以後の日本人は「あたいら日本人だから空気に流されるわよね」「あたいら日本人だから規律守っちゃうわね」といった具合に、適当に「空気に流されやすい」だったり「規律守っちゃう」という国民性を編み出していったのではないか。
これならばまさにベネディクト・アンダーソンの云う「想像の共同体」である。
だとすればこれらの国民性は幻想の国民性であり、通天閣が聳える新世界のオッサンの「ブォォォォォオオンンン」も合理的な説明に一歩ぐらいは前進できる。


何故日本人だけが「あたいら日本人だから〜〜」と相対的ではなく絶対的に評価するのか?
「あたいら日本人だから〜〜」と、自分で評価するのか?

この謎は一筋縄ではいかなかった。

だが「あたいら日本人だから〜〜」がとっても便利だということだけは合意形成コンセンサスに至ったのではないだろうか。

なんたって「あたいら日本人だから空気を読めちゃう」のだから。

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