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樸(あらき)という生き方【きまぐれエッセイ】

ある日、あたしは会社を休んで、近くの森へと足を運んだ。都会の喧騒から逃れて、木々のざわめきに耳を傾けるためだ。何も考えず、ただ歩きたかった。

森の奥深くで、一本の木に目が留まった。伐りだされたばかりの、まだ何者でもない木だ。その木に手を触れると、不思議な感覚が体を包んだ。まるで木のエナジーがあたしの体に流れ込んでくるようだった。

突然、目の前に年老いた賢者が現れた。長い白髪と優しい目が印象的だ。賢者は静かに語りかけてきた。
「この木は、お前と同じように無限の可能性を持っている。その可能性を縛るのは名前という枠組みだ。名を捨て、ただの存在として感じてみなさい。」

あたしは目を閉じ、その言葉に従った。名を捨てた瞬間、あたしの心は自由になり、無限のエナジーが流れ始めた。まるで、時間が止まり、森のすべてと一体になったような感覚だ。

ふと目を開けると、賢者の姿は消えていた。しかし、その教えは確かに心に刻まれた。名を持たない存在の力、それが本当のエナジーであり、タオの道であることを。

森を後にして、あたしは再び都会の生活に戻った。しかし、心の中にはあの森で感じた無限のエナジーが流れ続けている。あたしはもう、名前に縛られることなく、自分自身の道を歩むことができる。タオの教えを胸に秘めながら。


ある朝、街の喧騒を避けるようにして、雑踏から一歩外れた静かなカフェに身を寄せた。窓際の席に座り、ひと息ついた時、思わぬ哲学の波が押し寄せてきた。

「樸(あらき)は君主となれるが、器(うつわ)は臣下にしかなれない」と、突然目に入った本のページに書かれていたのだ。なんとも謎めいた言葉で、その意味を深く考え始めると、あたしの心は不思議な興奮でいっぱいになった。

樸(あらき)、その名の通り、素朴で自然な姿のままの木。何も加工されておらず、手つかずのまま存在している。対して、器(うつわ)はその名の通り、何かを収めるために作られたもの。形が決まり、用途が定められている。

「道(タオ)」という言葉も登場する。無限のエネルギーを持ちながらも、自ら動こうとしない何か。仮にこれを「道」と名づける。樸のように自然なままであることこそが、真の力を持つというのだ。

次に浮かんだのは、「大は小を兼ぬと雖も杓文字は耳掻きの用を為さず」という格言。しゃもじのように生きることが、成功や幸福をもたらすと言うのだが、耳掻きとしての役割は果たせない。ここでの教訓は明白だ。状況に応じて役立つ道具であることが重要で、そのためには柔軟性が求められる。

しゃもじとしての生き方を選ぶならば、その役割に忠実に従うべきだ。しかし、真に求められるのは、樸のように何にでもなれる存在であること。つまり、時にはしゃもじにも耳掻きにもなれる柔軟な存在。それこそが「道(タオ)」を体得した者のあり方である。

だが、そんな生き方をしていると、周囲からは「何を考えているのかよく分からない」と訝しがられることもあるだろう。しかし、道(タオ)を体得した者には、固定された信条など存在しない。樸であることは、何にでもなれる無限の可能性を持つことだからこそ、人の上に立ち、社会をリードすることができるのだ。

この競争社会で他人より抜きんでるために努力するならば、器のように定まった形にとどまるべきではない。真の向上を目指すためには、樸の思想を取り入れるべきだ。

あたしはカフェの窓から見える風景を眺めながら、この考えをじっくりと噛みしめた。誰かにしゃもじになれと言われたら、その役割を果たすのもよし。しかし、時と場合によっては耳掻きにもなれる柔軟な存在であることが、真のリーダーシップを発揮する鍵なのだろう。

そんな風に思うと、樸のような生き方が一層魅力的に感じられた。あたしもまた、何にでもなれる無限の可能性を秘めた存在でありたいと、心から願ったのだった。


道の常は名無し。樸は小なりと雖も、天下、能く臣とする莫し。
候王、若し能く之を守れば、万物、将に自のずから賓せんとす。天地、相い合して以て甘露を降す。民、之に令する莫くして自のずから均し。始め制られて名有り。名も亦た既に有り。
夫れ亦た将に止まるを知らんとす。止まるを知れば殆うからざる所以なり。
道の天下に在けるを譬うるに、猶お川谷の江海に於けるがごとし。
[老子:第三十二章聖徳]


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