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自然体でいきましょう【きまぐれエッセイ】

あたしの目の前には、いつも背伸びして無理をしている人たちが行き交っている。最近もまた、彼らの一人があたし前にやってきた。彼の顔は能面のようで、目の輝きがまるで消えてしまっているようだった。ここで一つ、大事な教訓を伝えなければならない時が来たと感じたのだ。

「無理をしないで、自然にまかせよ」
この言葉が何度も頭の中を巡る。無為というのは、人為や知恵の無駄を捨てて、あるがままに振る舞うことであり、それが本当の意味で無理をしないことだ。それが、老子さんの教えだ。

あたしはその教えを思い出しながら、彼に対して言葉を選んだ。
「もっと楽にやってみたら?」と。だが、彼の反応は予想通りだった。「あ、はいはいはいはい、そうですよねそうですよね、はいはいはいはい」と、無駄に返事を返してきた。
カチッカチッカチ……いつもカバンに潜ませているカウンターでの彼の言葉を数えると、八回の「はい」。彼は本当に理解しているのだろうか。

実力もないのに背伸びして、知ったかぶる人ほど鼻持ちならないものはない。彼らは無理に頑張ろうとするが、それがかえって仇となり、ますます人が離れていく。そうして孤独を感じるあまり、さらに虚勢を張って疲れ果てた顔をしている。

ある時、そんな人に何かを教えようとすると、教える側も疲れてしまう。知らないことを素直に知らないと言わず、知ったかぶりをするからだ。結局、教えたことが実行されず、また同じところでつまずく。
「わからないなら素直に聞けばいいのに」と何度も思うが、彼らはそう簡単には変わらない。

この無作為の教えの重要性を感じるのは、無理をして背伸びをしている人々を見たときだ。名声や功業そのものは必ずしも否定されないが、それが自然に成し遂げられたものでなければ意味がない。無理に努めた人為の賢しらであれば、それは『*余食贅行よしょくぜいこう』、捨てらるべき残飯に過ぎないのだ。

*余食贅行:余分な食べもの、余計なふるまい。中国の古い文献によると、
どんなにうまい食べものでも、たくさんの料理の後では捨てられ、
いくら功績があろうと、自分でほめれば、いぼやこぶと同じになってしまう

こうして、あたしは彼を観察し続ける。彼の顔は相変わらず能面のようで、何度教えても理解しない。しかし、あたしは心の中でそっとエールを送り続ける。

「もっと苦しめ……」

そして気づいてほしいと。

それが自然の掟なのだ。余計なものは捨てられる運命にある。
だからこそ、あたしは今日も無理をしない自然体で生きることの大切さを説き続ける。背伸びしないで、自然体で生きようよ、と。

[老子第24章:跂者不立]


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