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自然(じねん)/『自分の思い通り』はサイテーの人【きまぐれエッセイ】

自然(じねん)とは、何とも不思議な響きの言葉である。「自然」ではなく、「じねん」。自ずから然る。これは最上の政治が、無為の化に待つべきものであることを示している。言葉で人に説くことの過ちを教え、自然に任せるという哲学だ。さて、この哲学を身近な家庭に適用してみよう。特に、おやじの在り方についてだ。

理想のおやじ像を描くと、おやじは書斎にこもって何やら本を読んだり書き物をしたり、時にはぷいと出かけていったり、ふらっと帰ってきたりする。家族は、おやじがどんな仕事をしているのか知らない。けれど、不思議なことに家族は喰うに困らず、つつがなく明るく楽しく暮らしている。おやじの存在は、まるでいるのかいないのかわからない。尊敬も感謝もされず、ほめられもせず、まるでクニモサレヌ、デクノボーのような存在。これが最高のおやじの在り方だ。

最高の次に良いおやじは、家族皆から慕われ尊敬されている満点パパみたいな存在だ。彼は頼りにされ、家庭の中心にいて、皆にとって安心感を与える存在だ。しかし、それでもなお最高のおやじには及ばない。最高のおやじは、その存在を超えて家庭全体を自然と調和させるのだから。

次に、少しレベルが落ちるおやじを考えてみよう。彼は居場所がガンとして決まっていて、上座とか下座とかにうるさい。口がへの字になっていて、話が長く、うんちくと訓示を垂れるのが好きだ。おやじの気に入らないことがあると、家族は叱責され、時には体罰を受ける。家族は皆おやじを恐れ、おやじの顔色を見ながら暮らしている。気が休まらない日々だ。

そして、最もレベルの低いおやじ。家族からナメられ侮られ、うぬぼれを持っている。彼は「おれが家族を養ってやってるんだ」と思い込み、世間体ばかりを気にする。家族に対する顔と、世間様に対する顔が違う。自分をひとかどの人物、よき父、よき夫だと思っているが、実際はそうではない。

おやじの在り方は、実は組織の長や経営者、各界リーダーたる者にも通じるものだ。ノウガキよりも、まず第一に誠実さがなければならない。心ここに在らずのたぬきおやじは次第に信用を失う。しかし、あるがままの人のまわりは全てうまくいくのだ。

この教訓を胸に刻んで、あたしも今日もまた新たな気持ちで生きていく。何事も自然の流れに任せ、無為の化に期待しつつ、誠実であり続けること。それが、最高のおやじであり、最高のリーダーである道なのだ。

[老子第17章:大上下知有之]


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