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そのまま・このまま・あほのまま【きまぐれエッセイ】

民の心を心とする、というのは、まさに政治や経営における金言。
『政治は民の心を心とせよ』という言葉は、為政者だけじゃなくて、どんな組織のトップにも通じるもの。それは、道(タオ)に通じる人たちのように、特定の考えに固執しない柔軟な心を持つことが大事だということ。

道に通じる人は、自我による分別を捨て去り、差別をせず、道と一体になった立場から世界を見つめる。その視線は、凝り固まった観念で覆われることなく、受容し包容する。清濁併せ呑むその姿勢は、憂世の人から見ると、とらえどころのない存在に映るかもしれない。だが、それこそが変幻自在であり、臨機応変な生き方なんだ。

よくいえば変幻自在、悪くいえば朝令暮改、朝立暮廃。でも、それでいい。ハンドルに遊びがあるように、心にも遊びが必要なんだ。憂世の人たちは、人情や一貫性、筋が通っていることに拘るけど、それは頑固なラーメン屋の親父がラーメンの汁にこだわって、客の嗜好や時代の志向を無視して自己満足に浸って店がつぶれるのと同じようなものだ。

大衆の心をつかまなければ、商売はうまくいくわけがない。筋が通っているから、人情があるからといって、人間の価値が決まるわけじゃないんだ。自分の考えに囚われて、自分で自分の首を絞めて苦しみもがいて、それでいて誰も分かってくれない、社会が悪い、あいつが悪い、こいつが悪いと怨み節をうなる。そんなことしてたら、道(タオ)からはほど遠い。

道(タオ)に通じる人は、スキップしながら今日もまた、
ぎんぎんぎらぎら歌います。
ぎんぎんぎらぎら ゆうひがしずむぎんぎんぎらぎら ひがしずむまっかっかっか そらのくもみんなのおかおも まっかっかぎんぎんぎらぎら ひがしずむ

あるがまま
ありのまま
あほのまま


聖人は常の心無く、百姓の心を以て心と為す。
善なる者は吾れ之を善とし、不善なる者も吾れ亦た之を善とす。徳、善なり。
信なる者は吾れ之を信とし、不信なる者も吾れ亦た之を信とす。徳、信なり。
聖人の天下に在るや、歙歙として天下の為に其の心を渾にす。
百姓、皆な其の耳目を注ぐ。聖人は皆な之を孩にす。
[老子:第四十九章任徳]


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