ココロのボス【きまぐれエッセイ】
老子もぼやく
あたしの話を聞いたシトはね、みんなきつねにつままれたような面相して言うんだよ。
「ご隠居、えれえでけえハナシなんですがね、あっしにゃあなんだか雲をつかむようなハナシでどうにもこうにもハァ訳がわからねえんでして……」
訳がわからねえ、なんていってるけど、ほんとは腹ンなかじゃあこう思っているんですな。
「国を治めるだの聖人がどうしたとかハナシはでけえが、このご隠居、やってることといやぁ、一日じゅううすぼんやりして猫なんぞ撫でてるぐれえなもんだ、ええ?いってえ起きてんのか寝てんのかさっぱりわかりゃしねえってなもんだ。ご隠居、とうとうヤキがまわっちまったみてえだな、こりゃまいったなァ」
あたしがヤキがまわっちまったように思うのは、ま、仕方がないことですな。
そらぁ大きいなんてもんじゃあない、道(タオ)のハナシがあまりにも大きすぎるから、訳がわからないのはあたりまえのことでしてな。
道(タオ)のハナシにゃ、オチなんぞどこ探してありませんから、おもしろくもないおかしくもない、そんなハナシを聞くのはきっと退屈なんでございましょうな。
あたしが、わかりいい落語のようにおもしろいハナシでもってアレンジすることは、まァ、可能ですよ。
でも、そんな落語のようなハナシでもってほんとうの道(タオ)は語れませんですからな。
ところで、あたしには三つのポリシーがあって、それをいつもしっかり守っている、その実践ってえのがまさしく道(タオ)の実践ということなんですな。
ひとつは、母親のような慈愛の心を持つこと。
ふたつめは、何事もつつしんで無駄なエネルギー使わないこと。
みっつめは、でしゃばらず余計な節介をせず人の先に立たないこと。
この三つを心に抱きながら毎日猫をなでているんです。
母親のような愛があってこそ、人は人に優しくなれるし思いやりを持つことができる。
愛があるからこそ吾が子のためにギセイになることができる。
愛があるからこそ真の勇気が沸き起こる。まさしく母は強し、女は勇まし。
倹約するということは、モノ、カネ、ココロ、あらゆる面において無駄遣いをしないということ。
出し惜しみ、けちんぼうではない。
使うときは価値ある使い方をする。出し惜しみはしない。
心を込める。
いつも物心共に豊かだからこそ人助けができる。
争わず、控えめで、アシスト、バックアップ、サポート、なんでもや、こんな生き方が良く似合う。
慈悲の心がないのにそれらしく振舞ったり、財もないのに見栄体裁だけで気前良く振舞ったり、器量もないに先頭に立とうとしても、それは中味がないから必死のココロ、いずれ破綻するのが必至のココロ。
ココロのボス。
大河や大海が百谷の王者でありうるのは、それが低きにいて善くへりくだるから、百谷の王者でありうるのだ。
だから人の上に立とうと思うときには、必ず謙虚な言葉で相手にへりくだり、人の前に立とうと思うときには、必ず人の後からついてゆく。
だから無為の聖人は、民の上に居ても民は重荷とせず、その前に居ても民は邪魔者としない。
だから世界じゅうの人間が、彼を推し戴くことを楽しんで厭な顔をしないのだ。
誰とも争おうとしないから、世のなかに敵対しうるものがいないのだ。
[老子:第六十六章後己]
常日頃から並々ならぬお心遣いをいただき感謝いたします。これからも変わらぬお引き立てのほど、よろしくお願い申し上げます。