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相対的世界の茶番劇【きまぐれエッセイ】

世に言う禍福善悪はすべて相対的なものにすぎない。
道(タオ)に通じた者は、このことを知っているから自分のみが正しいとして他人に押し付けたりはしない。
他人の心を蹂躙したりしない。
特定のシューキョー、シンコー、シンネン、シソー、シンジョーにハマると、アタマも枠にハマりこり固まる。
数行の思考プログラム。
この教団のお陰で救われました。
この先生のお陰で救われました。
この教えのお陰で救われました。
この教団以外救われる道はありません。
この先生以外救われる道はありません。
この教え以外救われる道はありません。
この教団に繋がらないから不幸になるんです。
この先生を受け入れないから不幸になるんです。
この教えを理解できないから不幸になるんです。
これをすると幸福になります。
これをしないと不幸になります。
幸福なひとはみなコレやってます。
不幸な人はコレをしていないんです。
アリガトウヲイパーイトナエルトウンガヨクナリマス
ベンジョソウジヲスルトカネガタマリマス
ウンガワルイヒトハメッタニアリガトウヲイワナイデス
ビンボーニンハベンジョガキタナイデス
無限ループです。
これにはまったらもう抜け出せません。
便所掃除をシゴトにしている人もいるんです。
金持ちで便所掃除のパートをやっている人を知りません。
金持ちで便所が汚い人もいるんです。
「てめえばかこのやろう」が口癖のタレントは運が悪いように見えません。
ものごとは相対的。表があるから裏があるように、禍は福の原因ともなり、福は禍の原因になることだってある。
なにごとも、分断して分離する考えかたは極端に走りやすい。
せっかく良いコトバを知っていてもその善いコトバを実践しない、あるいはそのコトバを武器にしてぶんぶん振り回す人がいる。
危なくってしょうがない。
たとえば、「人を裁くな」といって他人を裁く人。
聖なる利口馬鹿同士の会話
「……でね、人をね、見かけや学歴でね、判断するのはね、よくないですよね。聖書でもね、人を裁くなとか言ってますよね」
「聖書、でも? は~あ? でも、ってなんですか。聖書、でも。ってあなた、聖書のことどれくらい知ってますの?」
「え、え?まあ、あなたほどではないですけどね、新世界訳聖書を完読しましたからね。イエスは十字架ではなくね、杭に磔にされた事実を知りましたね。」
「ははは、それって異端じゃん。だめじゃん。うちの教会に来なさいよ正しい聖書解釈教えてあげるから」
「あなたそれでも、クリスチャンなんですか!さっきから私を裁いてばかりいるじゃないですか!」
「裁いてなんかいないよ、ただあなたが間違った聖書解釈しているから正してあげただけですよ」
「その態度がいけませんね、本物のクリスチャンなら人を裁かないですよ。あなたは、きっと偽クリスチャンですね」
「なにぃ、こら!人を裁くな!」
「そっちこそ人を裁くな!偽クリスチャンが!」
「さばくなー」
「おまえこそさばくなー」
「さばくなってゆってさばくなー(泣」
「おまえがさばくのやめないからいやだー(泣」
…………
∞以降バカの無限ループ∞
異端だとか正統だとかいって聖なる本の解釈の正しさを云々しているのは神だキリストだと高尚なコトバのわりに、やっていることは子供のけんかのようにしか見えない。
他人の愚かさを嗤うまえに、相対世界に生きる自分自身の愚かさに気づくのが先である。

ああ、なんと滑稽な光景であることか。世の中の善し悪しがみな相対的なものと説く道々たる人々が、互いに対立し、相手の愚かさを嘲り合う姿。本来なら寛容の徒であるはずが、ひとたび自らの教義に入れ込むと、異を唱える者たちに対して嫌悪の情を燃やし、罵りの言葉を投げかける。

「聖書にも人を裁くなと書いてある」とわめくクリスチャン同士が、実に痛快なほどに自らその戒めを無視し、互いに相手を「異端」「偽物」と烙印を押す有様。本家本元の神の子らが、子供じみた口げんかに終始するという茶番。まさに高踏的な価値観を振りかざしながら、けしからん振る舞いを演じているのだ。

しかしながら、この滑稽さに気づかぬ当人たちの顔つき、そこには開祖や教祖。聖人、偉人を真似た自負に満ちた眼差しがあり、見る者をして大いに哂わせずにはおかない。わが教えこそ正しく、他は皆邪道であると、自らの狭量な枠内でのみ正義を語り合う。これほど陳腐な演劇があろうものか。

そもそも善悪や幸不幸といった概念が相対的なものであるならば、むしろ他者の生き方を受け入れ、寛容であるべきなのに。だがそこには、精一杯の気合と本気さがあり、それが滑稽を生み出す源泉となっているのだ。

嗚呼、これらの人々に一物知恵を与えたいものである。「相対的な世界に生きる以上、あなた自身も愚かしき存在なのです」と。己の限界や狭量さに目を向けることなくして、他者の愚かさを嘲ることはできまい。自らの小ささを自覚することこそ、真の寛容と叡智への入り口なのである。

想像してみよう。ある日、目の前に突如現れた妙な舞台、その上で熱心に論争を繰り広げる者たち。あたしはその光景を眺めながら、ふと笑いをこらえきれずに声をあげる。まるで、子供の喧嘩を見ているかのような気分である。彼らの顔は真剣そのもので、怒りに満ちた表情は一見恐ろしげだが、その裏にはどこか滑稽さが漂う。

ひとりの男が叫ぶ。
「お前たちは何も分かっていない!真実はこの書物にこそあるのだ!」
彼の手には古びた書物が握られている。もうひとりの女が対抗する。
「そんなもの、ただの迷信よ。私たちの科学的知識こそが真実だ!」
彼女の手には最新の研究論文がある。

この二人の熱烈なやりとりは、観客席にいるあたしに一つの教訓を与える。どんなに高尚な理念を掲げていても、その実態は人間の愚かさと狭量さの産物であると。そして、その愚かさこそが人間らしさであり、その狭量さこそが滑稽さの根源であると。

滑稽な舞台の幕が下りる時、あたしは心の中でそっと呟く。「相対的な世界において、真の賢者は己の無知を知り、他者を受け入れる者である」と。そして、また次の滑稽な光景を楽しみに待つのである。


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