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嘘とフィクションと村上春樹のスピーチ

最近、嘘とフィクションと真実と問い、のようなことばかり考えている。
嘘とフィクションについては先日noteに書いたが、その後あれこれ人と話す中で、村上春樹氏の興味深い言葉と出会ったので一部抜粋して紹介する。2009年にエルサレムで、英語で行われたスピーチで、主旨としては「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ」というものだが、その前段で嘘とフィクションについて言及している。

―― 以下、引用 ――

私は今日小説家として、ここエルサレムの地に来ています。小説家とは、“嘘”を糸に紡いで作品にしていく人間です。

もちろん嘘をつくのは小説家だけではありません。知っての通り、政治家だって嘘をつきます。外交官だろうと、軍人であっても、あるいは車の販売員や大工であろうと、それぞれの場に応じた嘘をつくものです。しかし、小説家の嘘は他の職業と決定的に異なる点があります。小説家の嘘が道義に欠けるといって批判する人は誰もいません。むしろ小説家は、紡ぎだす嘘がより大きく巧妙であればあるほど、評論家や世間から賞賛されるものなのです。なぜでしょうか。

私の答えはこうです。小説家が巧妙な嘘をつく、言いかえると、小説家が真実を新たな場所に移しかえ、別の光をあて、フィクションを創り出すことによってこそ、真実はその姿を現すのではないかと。ほとんどの場合、真実を正確に原型のまま把握することは実質的に不可能です。そう考えるからこそ、私は真実を一度フィクションの世界へと置き換え、その後フィクションの世界から翻訳してくることによって、隠された場所に潜む真実をおびき寄せ、その尻尾を掴み取ろうとしているのです。そのためには、まずはじめに私たちの中にある真実がどこにあるのかを明らかにしなければなりません。これは良い嘘をつくためにはとても重要なことです。

―― 引用おわり ――


真実をあぶり出すことが目的なのか、結果的に真実があぶり出されるのか、どちらにせよ、フィクションが何かしらの真実をあらわすことは間違いないように思う。もちろん程度の問題はある。

世の中にはいろんな真実が存在していて、分かりやすいものもあれば、気付かず素通りしてしまっているものもある。おそらく後者のほうがはるかに多い。私たちはあらゆる事象の中から真実を切り取ることができる。切り取り方は自分次第で、全くの自由。思考も認識も自由。誰かが「そんなものは真実ではない」と言ったとしても、そんな言葉は無意味かもしれない。

正しい解を得るためには正しい問いをすべき、という考え方があって、解のある界層においてはその通りなのだが。
対応する解が存在しない場合であっても、「問いを立てる」ことには意味があるのではないか、ということを考えている。

いずれにせよ、真実も問いも、実はそこらへんに存在していて、見ようと思えば見られる。それらは永遠に、私やあなたの周りをぐるぐる回っているのだと、思っている。


以下、村上春樹氏のスピーチの後半部分を一部抜粋する。こういう話を聞くと、彼が単なる人気作家でないことが分かる。そして、自分もやはり芯や哲学のあるフィクションを作りたい、と改めて思い、励まされる。


―― 以下、引用 ――

そのかわり、この場で極めて個人的なメッセージをお話しすることをお許しください。これは私がフィクションを書く間、ずっと心に留めていることです。紙に書いて壁に貼るとか、そういったことではなく、私の心の奥に刻み付けていることがあるのです。それはこういうことです。

「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ」

そう、壁がどんな正しかろうとも、その卵がどんな間違っていようとも、私の立ち位置は常に卵の側にあります。何が正しくて何が間違っているか、何かがそれを決めなければならないとしても、それはおそらく時間とか歴史とかいった類のものです。どんな理由があるにせよ、もし壁の側に立って書く作家がいたとしたら、その仕事にどんな価値があるというのでしょう。

この比喩の意味するところは何でしょうか。あるケースにおいては、それはあまりにも単純明快です。爆弾・戦車・ミサイル・白リン弾は高くて硬い壁である。卵はこれらに撃たれ、焼かれ、つぶされた、非戦闘市民である。これがこの比喩の意味するところの一つです。

しかしこれが全てではありません。もっと深い意味もあるのです。このように考えてみませんか。私たちは皆それぞれ、多かれ少なかれ、一つの卵であると。皆、薄くてもろい殻に覆われた、たった一つのかけがえのない魂(たましい)である、と。これは私にとっての“本当のこと”であり、皆さんにとっての“本当のこと”でもあります。そして私たちは、程度の多少はあるにせよ、皆高くて硬い壁に直面しているのです。この壁には名前があります。それは“システム”というのです。“システム”は私たちを守ってくれるものですが、しかし時にそれ自身が意思を持ち、私たちを殺し始め、また他者を殺さしめるのです。冷たく、効率的に、システマティックに。

私が小説を書く理由は、たった一つしかありません。それは個が持つ魂の尊厳を表に引き上げ、そこに光を当てることです。小説における物語の目的は警鐘を鳴らすことにあります。糸が私たちの魂を絡めとり、おとしめることを防ぐために、“システム”に対しては常に光があたるようにしつづけなくてはならないのです。小説家の仕事は、物語を書くことによって、一人ひとりがそれぞれに持つ魂の特性を明らかにしようとすることに他ならないと、私は信じています。そのために、生と死の物語、愛の物語、あるいは多くの人が泣いたり、恐れおののいたり、笑い転げたりする物語を紡いできたのです。これが私が、来る日も来る日も、徹底的な深刻さで大真面目にフィクションを紡いでいる理由なのです。

(中略)

私が今日、皆さんに伝えたいと思っていることは、たった一つだけです。私たちは皆、国家や民族や宗教を越えた、独立した人間という存在なのです。私たちは、“システム”と呼ばれる、高くて硬い壁に直面している壊れやすい卵です。誰がどう見ても、私たちが勝てる希望はありません。壁はあまりに高く、あまりに強く、そしてあまりにも冷たい。しかし、もし私たちが少しでも勝てる希望があるとすれば、それは皆が(自分も他人もが)持つ魂が、かけがえのない、とり替えることができないものであると信じ、そしてその魂を一つにあわせたときの暖かさによってもたらされるものであると信じています。

少し考えてみましょう。私たちは皆それぞれが、生きた魂を実体として持っているのです。“システム”はそれをこれっぽっちも持ってはいません。だから、“システム”が私たちを利用することを決して許してはならない、“システム”に意思を委ねてはならないのです。“システム”が私たちを創ったのではない、私たちが“システム”を創り出したのですから。

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