読書記録「推し、燃ゆ」
川口市出身の自称読書家 川口竜也です!
今回読んだのは、宇佐見りんさんの「推し、燃ゆ」河出書房新社 (2020)です。
・あらすじ
主人公のあかりは男性アイドル 上野真幸を「推す」女の子。物語は「推しが燃えた」から始まり、真幸は徐々に表舞台から姿を消していく。アイドルを推していたあかりも、生き甲斐を失ったように沈んでいく。
冒頭の「推しが燃えた」からの、ラストにあかりが行った行動が、「燃えた」人間に対して行う行為と重なり、思わず感嘆のため息を漏らす作品。
私自身、高校大学とアニメオタクであったし、ライブやファンミーティングに行かないまでも、確かに「推し」は存在した(いや、今も存在しているか)。
とは言え、オタクだからと一画りにみんなそうだという訳ではないし、正直共感できない所もある。無論、共感できるか否かが、文学として素晴らしいとか面白いと判断する指標にはならないと私は考えるが。
それはともかく、私は主人公の「あかり」が何故生き甲斐を失ってしまったのかについて書きたい。
アイドルは"偶像"である
主人公のあかりは、自分のことを勉強も苦手、仕事も苦手、真面目なんかではなく怠け者なのだと称する。上野真幸を「推し」と呼ぶようになったのは、ふとしたきっかけで観たDVD、幼少期に観に行った劇場のピーターパン役で登場していたのが子役時代の上野真幸であった。
彼女は現実においてはいわゆる「可愛そうな」女の子ではあるが、ブログを通じて、「推し」のことを書く世界においてはちょっとした有名人でもあった。ブログの更新を待っていてくれる人がいる。
しかし、両親や姉は彼女を特別視してくれることはない。近くにいるからこそ、あかりの態度や行動、アイドルを追っかけている行為に対して良しと思わないものである。
それでも、ネットの中では彼女は承認される。文面でしか彼女を把握することが出来ないからこそ、彼女の姿は輝かしくも見える。
彼女にとって「推し」の存在は、唯一彼女と社会を繋げるものであった。「推し」のために仕事をし、ブログを書き、"人として"生きる糧となっていた。
その「推し」が居なくなったとならば、彼女は一体何にすがって生きていかねばならぬのだろうか。
英語の"idol" は「信仰の対象としての偶像、神像」と辞書に出てくる。推しのためにグッズや写真で部屋中を祭り上げる場所を祭壇と呼ぶのも多分それから来るのだろう。
"その対象に無条件に依存し献身する心的態度"を信仰と言うならば、信仰とは一方的な感情でもありうる。それは悪いことではないし、少なからず人間は、何かにすがって生きているものだと思う。
自分を助けるものは自分と言っても、そもそも自分を自分だと証明するためには、他人の存在が必要なわけである。人間は社会の中で生きている動物であり、自分一人で生きている者はいない。
故に、「推し」を失ったことが生き甲斐を無くしたのではなく、「推し」がいなくなったことにより人として生きる理由を失ったことが、ラストの発言の意味に繋がるのかもしれない。
是非ラストの言葉を、皆さんなりに解釈して頂きたい。それではまた次回!
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