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読書記録「努力論」③

川口市出身の自称読書家 川口竜也です!

今回も、幸田露伴先生の「努力論」岩波書店 (1940) について要約して参ります。

着手の処

実際の利益を得ようという意で教を請うのに、さて着手の処の分からぬ教を得たのでは実に弱る訳である。そこで問う者は籠耳になってしまって、教は聞いたには違いないが何らの益も得ずに終わるという事も少なくない。

同著 35頁より抜粋

人間の成長の過程には、5段階あると言われています。「知る→わかる→行動する→できる→分かち合う」という段階です。

いかに良き学びがあったとしても、では一体何から始めたらよいのかわからないようでは、籠から水がすり抜けるように、聞いたことも忘れてしまいかねません。

ただ、学問には着手の処が不明な事があることを露伴先生は認めている。私自身、大学時代は経営学を専攻しており、組織論やマーケティング論等を勤勉に学んでいたが、実社会で生かしているかと言えば、首を傾げる所がある(少なくとも、継続して学ぶことにより脳を鍛えられたのと、大学から腕時計が贈呈されたことだ)。

では、学ぶ学問が間違っていたのだと言うことか、講師やスピーカーが何をすべきか教えてくれかったのが原因であるか、否、その考えは誤りである。

学んだことを、いかに自分の行動に移せるかは、他ならぬ自分がいかに意欲を持って学べるかの如何によりけり。

着手の処、着手の処と逼り詰めて学ぶのでなくては、百日過ぎても講堂の内に入らぬのである、一年経ても実践の域に進まぬのである。

同著36頁より抜粋

教えて貰えなかったのであるならば、教えて下さいと更に迫るのである。その人も「できる」ようになったから教えているのである。だとすれば、その段階に至るまでの行動は伺うことができるだろう。

また、教わった良かったで終わらず、今回の学びを自分事に捉えて、「じゃあどうする?」と考えることも大事である。教えた人のやり方がそっくりそのまま生かせない場合は、自分の仕事ならばどうであろうかと考えてみる必要がある。

 どんな分野においても、実践を通じることによって体得するものである。本であれ講座やセミナーであれ、TODOに落とし込む気概と努力が必要です。それではまた次回!

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