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千葉高生への手紙

先日とある千葉高アカデメイアメンバーにあてて書いた文章です。読みやすいように一部改編。

本人承諾済

仲間の成功を皆で応援して仲間の誰かが成功したら
成功した誰かはお礼にみんなに成功の分け前を配る。
次に仲間が何かするときは今度は自分も応援する。

人の幸せを願って、人の不幸を悲しむ
のび太君でもできるヒトとして真っ当な共同体を

真面目につくりたい

というのが今の僕のやりたいこと、って話をしてみようかと思います。

人間を消費させるナニカ

こうした共同体って、いたって人間らしい生き方というか、
有史以来、ごくごく普通で何もおかしくないむしろ平凡な話だとわりと真面目に思っているんですが、どうやら僕が変なことを言っていると思う人もいるらしいです。

(割と多くの人類にとって、長くやってきた生き方のはずなので、性にあってるとおもうんですけど)

現代のよくある共同体を考えると、

誰か顔もみえない、やってることもいまいちわからない環境にいると、
疑心暗鬼になって、仲間を応援するよりも、時間やモノを奪われないか疑ったり、あげくには奪われる前に奪おうという思考になりがちです。
それをルールと賞罰で縛って、嫉妬も増幅、自由がなくなるし、ムダな仕事、消費する資源が増えまくってます。

(これは人が多くいる都市にありがちで、人が多すぎると、悪いことする人も必ず一定数いるので、仕方ない面もありますが、なにぶん才能ある人や自由にやりたいことをやろうとする人が力をうまく発揮できない)

一方、時を遡り、原始時代の共同体は(諸説あり)

仲間のために、それぞれの得意なことをそれぞれやっていく。
好奇心や人間的な素直な感覚に従って、嫌なこと、不快なことがあったら、すぐ逃げて、やりたくないことは諦め、他の人から褒められるようなことを探し、見つけ、それを継続する。
(人間の脳の機能はそうゆう風にできてるし、原始の脳の使い方はおそらくそう。)

あるヒトは畑を耕し、あるヒトはごはんをつくる。
あるヒトは皆を楽しませる祭の準備をしたり、土で人形を作ってみたり、心地よい音を研究する。
あるヒトは未知の生物を味見し、食べられなかったら、どこが食べれるか調べる。
あるヒトは仲間のために有益な情報を残す

そうして人類は文明をスタートさせていったはずです。

顔が見える(誰が何やってるかわかる)規模のうちはそれがやりやすいし、
原始時代の小規模なムラはまさにそうやって生きていく共同体なわけです。
顔の見えるヒトたちが信頼のもと、いろんな”貸し”と”借り”の感覚の中で協力する。(そして当然ですが、貨幣はそのときまだ存在してません。)
(ある意味ムラの人は大きな家族みたいな感覚だったと思います。)

なんだか原始時代の方が、人間らしく、というか人間味があるように見えますね...?
(というより現代の都市の生き方は本来の脳の使い方がしにくく、脳への負荷が高い生き方を強いられていると思ってます。)

受験競争や就職活動で、将来のことばかり考えさせられて、
今この瞬間や今日をあまり楽しめないのって、よくよく考えて”変”ですよね。

(そもそも、やなこと、興味のないこと、不得意なことを継続できるように脳は設計されていません。むしろ逆です。得意なこと、人から褒められることに動機づけされるようになっています。)

将来の幸せのために、とかどこぞの大人は言うかもしれませんが、

ほんとにどこぞの大人は幸せそうですか?もしくは今幸せじゃないのは、昔にそうしなかったからって当事者でないのになぜわかるんでしょうか?僕にはすっごく不思議です。根拠が薄弱すぎます。
偉人の伝記や広告や、ビジネス記事、あるいはドラマなんかを見て、そういった考えにいたっているのかもしれません。

人生って、”今”とか”今日”の総集編なわけで、
そんなことしてたら、つまらん思い出スカスカ映画になっちゃうので、
死ぬ前に走馬灯で見返しても、たぶん退屈だし、わが人生に一片の…悔いしかねえし、なんだこのくそつまらない走馬灯は!て叫んで終わる気がしますし笑

年を取ると、体感時間は短くなりますよね(実際僕もそう感じながら日々生きています)

小学生の一日は長かったけど、老人の一年は一瞬みたいな。(ジャネーの法則とかいいます)
(これは忙しさと体力の衰えの問題もあると思ってて、またいつか語ります)

ざっくりいえば時間の心理的長さは反比例するという大胆な説なんですが、
この仮定を数学的にまじめに計算すると、脳の時間感覚的にはもう人生の後半(下手したら終盤)って捉え方もできます。

そうすると、今20-30代の人でも、時間感覚的には後半(終盤)なのに、
なんでまだ先のこと(老後は終了の間際)を考えてるんだ?という気分になってくる。

(たぶん死ぬ前とか年を取ったときに懐かしく思い出すのってほとんど若かりし頃なんじゃないですかね。あくまで僕の印象論ですが。あくせく働いてるときのことをあぁ人生。って懐かしく思い出す人も、もしかしたらいるかもしれませんが。)

挙句の果てには老後のことまで考えて、今使えるお金を誰かに渡して、
知らん人に自由に使ってもらおうとしたり(株や投資みたいな)

なーんか皆で狂ってるように思えてきます。

社会の外側にいったん離れて観察していると、そう感じることが多いです。
(社会の内側で同じように頭の中で考えてる人も多いのかもしれません)

その狂ってるように見える正体を言葉にすれば

人の人生そのものを商品にして、値段をつけて、売買する。
社会全体で”人間を消費させるナニカ”

と言い換えてもいいかもしれません。


じゃあ続いて、
一体全体、このナニカってなんだ?というお話です。

大人気ボードゲーム”ビジネス”

休職中にこれからお金を稼がないとなって思った時期に、
ビジネスの勉強をしてたんですが、一種これはボードゲームであるとおもったんですね。

ここではゲームのプレイヤーを”企業”と呼んでみます。

さてボードゲーム”ビジネス”において、自分の持っているお金を最大化することを企業(プレイヤー)の勝利条件と考えると、
(市場の大きさ、パイとかいう)登場人物の集団が使うお金の量をふやして、それを上手に回収するプレイングが求められるわけです。

であるならば、
”お金を使わないとなーんもできない不満足な人間”てのが、このゲームの登場人物としての理想だなあと思いました。
(逆に満足している人、お金を使わないor使わなくても生きていける人ってのはあまりこのゲームには理想じゃない)

例を出すと、
田舎で農家のじいちゃんばあちゃんたちの手伝いをして、
空いてる部屋を貸してもらえれば、手伝いと交換に食料も手に入る。
知識があれば山や、そこらへんに無料で食べれるものが数多くある。
(都市では値段がつけられて売られているものが、お金ではなく行動で手に入る。)
物を作る技術を知っていれば、材料を集めてほしいものを作ることができる。
ゴミみたいな値段で売ってるジャンクな機械も修理して使うことができる。

克服のカギのひとつは羞恥心だけれど、”恥”は共同体の空気によって大きく違う。
(変なことしてる人が多い共同体では変なことをしてる方が普通になり、恥が薄れる。これはまさに千葉高の空気が体現するところですね。)

少し抽象化すると、
「ほしいものを自分でつくったり、集めたりできる人は、お金をかけずに生きることができる。」

(でもどうしてか最近、自分にはできないし、時間もかかるし、面倒だから、やる前から諦める、みたいな無気力が蔓延してしまっている、人類皆忙しすぎなのでは??)

ある意味で、お金を使うことは、お金と引き換えに誰かに”自分が面倒くさいこと”をやってもらう行為なので、

逆を言えば、自分でやることを面倒と思わなければ、お金は使わなくて済む。

そんな人がたくさんいる世の中では、経済規模や市場は(お金で測るので当然)小さくても、むしろ個々の満足度は高いかもしれない。


「料理はめんどくさいけど、美味しいものが食べたいから外食する。」

これを逆に言えば、

「めんどくさい料理の技術を習得すれば、お金をかけずに美味しいものが食べられる。」

これはすべてのジャンルの技術や、お金でなにかを交換する行為、”購入”において言えます。


人間が満足している状態を幸せと呼ぶなら、幸せになりたい人は究極的には、「お金を使わない人」を目指している。


チョット脱線しました。時を戻しましょう。

企業(プレイヤー)としてはこのお金を使わない登場人物はうれしくない。
登場人物にとってはお金を使わずに満足した状態(幸せ)になりたい。
という企業と登場人物が目指すものに明らかな相違がある。

企業は登場人物の幸せを一見願い、役に立つと思わせて
いかに理由をつけて、幸せな幻想を抱かせて、短期的な幸せは手に入っても、長期的な幸せは手に入らない商品を作るしかない。
(一生長持ちする電球がつくれないのと一緒で、最高の商品を作る会社は継続できない)

幸せを継続させるには、自社の商品を買い続けさせるように仕組むしかない。
(企業をつぶしてはいけないという前提で言えば)

本来は多くの人間を満足させる”最高の商品”をつくったら、さっさと企業を解体して、次の”人類のための最高の商品”を作った方がよっぽど社会のためになる。

そんな正義をもつ経営者がいないと、どんどんくだらないムダを産むことになってしまう。
技術的にはできるし、その方が誰にとっても便利なのに、企業利益がからむと技術は劣化する。
しかも不正義な企業が正義を貫く企業を淘汰してしまう。

(なんで、スマホの電池が自分で交換できないようになっているのかとか、少し考えてみてほしいです。)
(ガラケーの頃は電池パックを交換できる仕様に日本の技術者はつくってたハズ、いまや日本のスマホもはずせない仕様なのは、一体なんででしょう?)

結果、まだ使えるものを捨て、新しいものを買う
有限のエネルギーを使って、商品をわざわざ溶かし、あるものは原料にもどして、多くの労働力(人生)を使いながら成形して、色や形は違ってるが、役割はほぼ同じものを買わせることに、一体何の意味があるのか??

ほんとに、真面目に、自分の頭で考えてる?
人類はいったん仕事の手を止めてもいいから、もっと考えたほうがいいんじゃない?
SDGsとかいう前にちゃんと考えた?

さらにさらに色んな業界のお金の稼ぎ方を勉強した結論として見えたものは、

人に協力させず、信頼関係をぶち壊し、欲求を常に邪魔して、欠乏させ、コンプレックスを助長し、我慢させ、欲求を高め続けて、短期的に満たせる欲求だけを与えて、死ぬまでお金と交換させる。

これが、もし僕が血も涙もない悪の帝王だったら考える最強のお金の稼ぎ方です
(最悪な結論だし、そうなったら人間終わりでしょ笑)

ある国の現状

いやあ、お金の稼ぎ方を勉強して危うく闇落ちするとこでした、ふー。アブナイアブナイ笑


ん...あれ?

実際そうなってませんかね?


まさか。そんなねえ。地獄みたいなことになってるわけなかろうに笑
人間の良心の呵責をなめすぎか。ははははは。

家族だって助け合うな。成長したら家から出ろ、一人に一つ家やマンションを買わせて数千万の借金を返すために一生働かせるぜ!
勉強が好きでも嫌いでも関係ない。大学の学歴がないとお金を多く稼げる企業に入れなくて幸せになれないよ!さあ借金してでも大学にいって、卒業したらすぐ働いて働きながら金を返せよ??
すべてのコミュニケーションはハラスメントとして、働く人たちを孤独にさせようぜ!孤独だよな?不安だよな?金でストレス解消したらどう?
結婚できなかった男や結婚しても満足してない男は、若い女に金を払って遊んでもらえ!
ガキはお前の投資対象。たくさん金をかけて、ステータスをあげよう!さあ、学校のママたちと一緒にガキバトルだ!
人に頼るやつはゴミ。独立して、金を稼いでるやつが偉いしモテるぜ!みんなもセレブを目指そうぜ!
頭がいいやつは死ぬまで勉強して給料の高い会社に就職して、お金持ちのために金を集めようぜ!
そうだ!でかい仕事を受注だけして、知らねえ小さい会社にやらせれば、俺たち何もしなくてもピンハネできるじゃん!俺たち、あったまいい~!
将来は崩壊するぞ、もっと不安になれ、金があれば不安を解消できるぞ。さあ買い物でストレス発散だぜ!
仕事が忙しくて何もできないよな?気力もないよな?ほーら、タイパのいい娯楽だよ!

...。

(こうした風潮に最近、特に懐疑的なんですが、皆さんはいったいどう考えてるんでしょうか、折り合いをつけて案外楽しんでいるんでしょうか、それとも傷つけられながらも必死で耐え続けているんでしょうか。)

この社会はたーくさんたーーーーーくさん、人がお金を使うように、どうやら設計されてます。

そしてそのみんなが使うためのおかねを中央銀行という組織がたーくさんたーーーーーーくさん作っています。
でも、不思議と皆さんの手元には、そんなたーくさん、ありませんね?いったいどこにあるんでしょう。
造幣局で作られる山のようなお金の大部分はどこに消えているんでしょう?

時間があれば生涯消費と生涯収入の金額を調べたり計算することをお勧めします。
(ちなみに休職中やってよかったこと個人的第一位はお金の計算です。)

すると、今の時代、お金持ちの人でない限り、生涯収入よりも生涯消費の方が大きいことがわかります。

つまり、”稼ぐ金額より、使う金額の方が多い”わけです。なんででしょう?

まるで持っていないお金を使ってるように見えますね。すごーく不思議です。

この社会の人間が、稼げる金額よりも消費する金額が多い謎、を一緒に考えてみましょう。一体なぜなんでしょうね?


誰かの策略か、それとも図らずにそうなってしまっているのか?一体どっちなんでしょう?


働いてお金を手に入れないといけない価値観が蔓延してる世界では、
たぶんこの先どんどん、人の心を捨ててでも、ナニカを手に入れるために、
醜悪でムダなビジネスが増え続けていくことになる気がしていて、それは個人的にすごく危惧しています。

文明社会に生きるぼくらは、人間ではないナニカに動かされて、人間らしくないナニモノかになりたがって、でも中身は人間だから当然なれなくて、勝手に落ち込んでるのかもしれません。

そんな人間らしくないことを強いられている社会に適応できなくなった”人間らしい”人が、人間の脳の過剰な負荷を抱えて、精神疾患になっていくのかもしれません。

このナニカは多くの人間らしい人たち(特に今の若い人たち)を今も苦しめているのかもしれない。

(千葉高卒業生がほとんどを占める僕のTwitterのタイムラインを眺めていても、苦しさ、辛さを吐露しながら今日も懸命に生きている友人たちが多すぎる。)


もしかしたら、すでにそうなりつつあるのかもしれない。


ここで言いたいのは、

誰かの生き方を否定したいわけではなく、そういう側面の見方もできるよということです。
(勿論あえてちょっと口悪くかいてるので、気分を害したらすみません。今度ジュースでも奢ります)

そして、特に若い人は「素直に感じたこと」、「考えたけど皆の意見と違うこと」を誰かに忖度せずに、もっと言葉にしていいし、誰か意見を聞いてくれそうな人に話して、相談してもいいということ。

そして僕はそんな人たちともっと議論してみたい。

そうした建設的な議論がまともな社会を作っていくと信じているので。

高齢化社会の現代日本では、今若い人たちは社会(世代人口比率)から見れば、この先ずっと赤ちゃんか子供です。(投票権も正直あってないようなものかもしれません)

赤ちゃんの仕事は、嫌なことに泣き、騒ぎ、周りに助けを求めること。
子どもの仕事は、自由にわがままを実行し、将来の夢を考えること。
大人の仕事は、子どものわがままに我慢し、守り、育て、教え、将来の夢を応援すること。

【社会の大人たちへ】
…今の「社会の大人」は、大人の仕事をちゃんとしていますか?

ここが「嵐を呼ぶ!モーレツ!オトナ帝国」ですか?

どちらが大人でどちらが子どもですか?

どこかにいると信じてます。
物語に出てくるような、身を挺して子供たちを守る
かっこいいジジイとババアがいることを。

追記

まとめ

千葉高アカデメイアをまずは
いろんな常識、当たり前を疑い、誰にも忖度せずに
いろんな話が生まれる場にしていきたいです。

そしてやりたかったこと、忙しくて後回しにしてたこと、子供の頃に描いた夢、そんな人間らしいことを、誰でも臆面もなく、語り合い、
真面目に変なことを実現できるチームにすることが

まずは、今の僕の第一目標です。

「信頼関係が強くて、個人が好きなこと、得意なことに熱中できて、自由が多くて、ムダがすくない。みんなが人間らしい生き方ができる共同体」

俺が描く最強の共同体!”変人のユートピア”は、

今のところこんなかんじです。


また天空のサイゼで語り合いましょう。ではでは。

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