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他人様、世間様と会話をしてみよう。

どうも。まだ無職みたいな早川です。

最近、起業部の活動を通して再認識したことがある。


人間はお金だけでは動かない。(動けない要因はお金だけではない)


これは行動経済学とか、脳の仕組み一般でもよく知られているし、当然僕もそう思う。


人間のモチベーションは

・外発的動機づけ(モチベーション)…評価、報酬、賞罰、称賛、叱責

・内発的動機づけ(モチベーション)…興味、好奇心、自己実現感

の二種類ある。

外発的な動機づけの例:
「お金がもらえるから仕事をする」
「怒られたくないから納期までに仕事をする」

内発的な動機づけの例:
「好きだから、○○をする」
「将来○○になりたいから、そのための勉強をする」

動機づけの例

やりたいことがあるのにできないとき

「やりたいことがあるのにできない」とき、僕らは内発的なモチベと外発的なモチベが葛藤(ケンカ)していることが多い。

例えば、かったるーい仕事やかったるーいバイトやかったるーい部活を辞めて、別のことをしたいのに、なかなか辞められないでダラダラ続けてしまうとき、

僕も大学生の頃入った部活がもうのっけからぜーーんぜんつまらんかったけど、なぜか辞めたのは2年になってからだったし、それで違う部活に入る波にも乗れず泣く泣く帰宅部暇人キャンパスライフだったわけだ。

暇人キャンパスライフ、だがそれで良い

僕らは今やっていること、所属しているところとは、違う事に興味や実現したい自分を描いていて、大きな内発的な動機づけはある。

だが一方、外発的な動機づけがそれを邪魔する。

会社やバイトを辞めることになれば、もらえていたお金がなくなる、なんでこの忙しいときに辞めるの?と誰かから嫌味でも言われるかもしれない、社会的評価が傷つくかもしれない、築いた人間関係を手放さなければいけない、などなど。

つまるところ、他人が邪魔をしている。

(お金も他人がくれるものであるからして、そのお金を支払っている人が邪魔をしている。)


邪魔する他人様は一体どこの誰様?

こうゆうとき、自分を邪魔する他人・自分を縛る他人が具体的に誰なのかというのを明確にしていくと結構良い。


僕は会社を辞める前、そんなことを考えていた。

いったい自分の行動を縛る他人や世間様というのは、一体誰のことなんだ、と。


本当に存在するのか…?と。


突き詰めていくと、結構身近な人間であることが多い。

ちなみに僕の場合、「母親」だった。


結局会社の人なんぞは、実は僕のことを良く知らない人たちばかり(ただ同僚になった人に過ぎない)だし、僕も実はそんなによく知らない。そんな人たちに別れの一日どう思われようが、数日後から互いに全く関係ない日常が始まる。(久々に会って、お~、元気~?くらいはあるかもしれないけど。)

僕がいなくなったところで、一か月後には綺麗に忘れて、ああそんな人もいたなあと日常を過ごす人たちだから、実は縁というのはもとから非常に薄いし、気にしてもしょうがない。


それより、僕が心の奥底で気にしていたのは、親というこれまでもこれからもずっと自分のことを近くで見ている人間だった。

そして人一倍自分のことをとやかく言ってくる人間(親)を大量コピー&ペーストした影を「他人」や「世間」と呼んでいることに気づいた。面白いことに、世間様は親と同じ公務員みたいな全員定期収入をもらう安定人間設定になっている。

現実の世間様は、自営業、サラリーマン、フリーランス、正規・非正規雇用、様々だというのに。きっと僕の親が酒屋だったら、田舎の農家だったら、霊長類最強だったら、ふらふらパチンコと酒三昧のプー太郎だったら、まあ世間様の形は変わっていただろう。

僕が他人とか世間と呼ぶのはどこか「心配性な母親」みたいな顔をしている。それが一番幼少期から知っている「他人」であり、「社会の大人」だからかもしれない。


つまり、僕は会社を辞めるか辞めまいか考えているとき、他人や世間と呼ぶ「仮想母」にせっかく入った仕事をやめてしまうなんて!これから先どうするの!!という目を向けられていたわけだ。もちろん当然、現実の母も内心そう考えるだろう。


でもまあ、どうせいつか辞めることは決定したので、会社を辞めることを単刀直入に現実の母(世間様の母体)という人間に話した。


すると、

「あなたが考えて、そうしようと思ったのならそうしなさい。」

あっけなく会話が終了した。これからどうするかのプレゼンでも小一時間するかと思っていたのだけども。


拍子抜け&母(世間様代表)がそう言うなら、辞めてもええか。となった。


まあ、昔から僕の母はとんでもなく子どもの心配はするし、それが隠せていないし、感情も駄々洩れなくせに、自分のエゴを子供に押し付けるのはいけない、という強迫観念じみたものを持っている節がある。


そう思えば、まぁわかってはいたような気がするけれども、やはり僕は母をこれから激烈に心配させることに億劫になっていたんだろうな、と思った。

僕は昔から母を心配させるのが嫌いだった。だいたい考えている感情が伝わってくるし、そうした空気や感情を乱す行為が苦手だし、今も極力したくはない。(悩んでいた時は、世間とか他人からの目とか言葉ではカッコつけていたけれども、つまるところ親を気にしていたのだ。なんともかっこ悪い話だ。)


(もちろんもう一人激烈に心配させることになる人もいたし、むしろそちらの方が最期まで悩んだ理由だけど、それは断じて書かない。)


まとめ

というわけで、他人や世間が気になる人は一度、自分の考える世間が誰か近くにいる人間と似てないか、じーーーーっと考えるといいかもしれない。

そうすると本当に自分が気にしている「他人」「世間」が具体的には誰なのかが見えてくる。


具体的な「他人」や「世間」と(人によってはちょっと勇気を出して)会話をすると案外新しい発見がある。


他人様、世間様と会話をしてみよう。


ではでは✋

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