大切な選択は健康なうちにしておいた方がいい
こんにちは。交通技術ライターの川辺謙一です。
フリーランスで本や記事を書く仕事をしています。
私にとって #自分で選んでよかったこと は、現在の仕事を選んだことです。
独立20周年を迎えるのを目前にして、この選択をしてよかったとしみじみ感じます。
そのいっぽうで「選択そのものはよかったが、タイミングを誤った」とも思っています。それは、健康を害して休職に追い込まれた結果、やっとこの選択をできたからです。
そこで今回は、このような私の失敗を踏まえて、「大切な選択は健康なうちにしておいた方がいい」という話をします。
みなさまが人生における大切な選択をするうえで、少しでもご参考になれば幸いです。
■ 健康を害すると重要な選択ができなくなる
先ほど、「大切な選択は健康なうちにしておいた方がいい」と述べたのは理由があります。
それは、健康を害すると重要な選択ができなくなるからです。
健康でなくなると、考える能力が低下し、判断を先延ばしにするので、重要な選択を避けるようになります。また、これによって状況が悪化すると、負のループにおちいり、重要な選択がますますできなくなります。
かく言う私は、その負のループを実体験したことがあります。
会社員時代に、職場のストレスや長時間労働によって病気になり、心身ともに不健康になりました。ところが、仕事の成果を出そうとするあまり、自分の健康のことを考える余裕がなくなり、会社を休む、もしくは辞めるという選択ができなくなりました。その結果、病気がさらに悪化し、休職に至りました。
はっきり言うと、最悪なパターンです。
いわゆる「燃え尽き症候群」になったと言えるかもしれません。
どうかみなさまは、こうならないようにご自愛ください。いったん病気になると、人生の限られた時間の多くが無駄になってしまいます。
■ 休職後にできた冷静な判断
はっきり言うと、不健康になってよいことはありません。
ただ、それでも私にとっては、よい機会になりました。
休職して、時間に余裕がある生活を送ることになり、ようやく自分の人生を冷静にふり返ることができたのです。
当時私は、こう考えました。
この「やりたかったこと」が、今の仕事だったのです。
■ 就きたかった2つの職業
ただ、厳密に言うと、「やりたかったこと」はもともと2つありました。
じつは私は、その2つを両方を実現しようとして、就職時から「二足のわらじ」をはいていました。つまり、会社員時代に副業、今風に言えばセカンドビジネスをしていたのです。
その理由は、次のとおりです。
私は、子供のころから工作や、鉄道などの乗り物が好きになり、自然科学や技術に興味を持ちました。そのいっぽうで、絵を描くのが好きになり、何かを表現することに興味を持ちました。
そこで、次の2つの職業のどちらかになろうと考えました。
①技術者(エンジニア)
②創造者(クリエイター)
※「創造者」という言葉はあまり使われませんが、ここでは「技術者」に対する言葉として使いました
結果的に私は、高校時代に①を選択し、大学の工学部に進学しました。
それは、②になることが想像以上にむずかしいと気づいたからです。中学・高校で美術部に所属し、絵を描くトレーニングを受けたものの、美術系大学の就職率が低いというきびしい現実を美術部のOBから聞き、②になることをあきらめました。
■ 就職とともに「二足のわらじ」をはく
ただし、大学に入ったら、サークル活動を通して、自分に次のような特徴があることに気づきました。
個人行動が得意で、特定の分野において能力を発揮する
団体行動が苦手で、長いものに巻かれるのが嫌い
あえて一言で表すならば「職人気質」。
こういう自分は、組織に属するのに向いていないし、チームプレーが求められる①の技術者には向いていない。むしろ、②の創造者の方が向いているかもしれない。
私はそう考え、迷った結果、①と②の両方を目指すことにしました。
具体的に言うと、大学や大学院で工学を学ぶいっぽうで、絵や文をまじえた同人誌を作成して、コミックマーケットなどの同人誌即売会で頒布し、それを出版社に持ち込んで自分を売り込んだのです。
その結果、私は①になる直前に②になりました。ある出版社から声をかけられ、就職直前になって鉄道旅行雑誌のイラストを描くイラストレーターとして商業デビューしたのです。
その後、私はメーカーに入社して①になり、①と②の「二足のわらじ」をはく生活をすることになりました。
このような選択をできたのは、おそらく当時の私が若く、健康で、時間に余裕があったからでしょう。
■ 残された選択肢
ただ、結論から言うと、①の「技術者」は向いていませんでした。
当初はメーカーで個人行動が優先される部署に配属されたため、技術者としてそこそこの成果を出すことができました。ところが団体行動が優先される部署に異動、転勤になり、研究開発のテーマや職場の環境が大きく変わったら、途端に仕事がつまらなくなり、モチベーションが低下しました。
このため、先ほど述べた「不健康な状態」になり、休職に至りました。
当時は「技術者」としては「燃え尽きた」状態だったので、転職して「もう一度技術者として復活しよう」とは思いませんでした。
そのいっぽうで、イラストレーターとしての仕事は比較的充実していました。技術者としての仕事のかたわらでコツコツと続けていたので、出版社の編集者や、先にクリエイターになった方と知り合う機会が増えていました。
また、幸いにして、私の友人・知人には、多くの鉄道関係者がおり、いつでも鉄道のことを聴くことができる環境がある程度整っていました。
そこで私は考えました。
それなら、鉄道をテーマとした②の「創造者」になればいい。
■ イラストレーターからライターに
そう考えた私は、早速、鉄道関係の書籍や雑誌を扱っている多くの出版社に電話をかけ、編集者と直接会い、自分を売り込みました。
そして、ある編集者からこう言われました。
「技術者だったのなら、文章を書けるのでは?」
言われた瞬間はショックでした。「あなたのイラストには需要がない」と言われた気がしたからです。
ただ、この言葉で大きなことに気づきました。
じつは、私は、文章を書くのが好きだったのです。
高校・大学・大学院・会社で「君は文章がうまい」と褒められたことがあったのに、それを特技だとは認識していなかったのです。
また、別の編集者からは「イラストレーターはいっぱいいるけど、専門知識を持ったライターが非常に少ない」と聞きました。
となれば、技術者としての経験を持ってライターになれば、もっとレアな存在になれる。
そう考えた私は、休職中に「ライター兼イラストレーター」と記した名刺をつくり、身近な乗り物である鉄道を通して技術を紹介する仕事を始めました。
「イラストレーター」という肩書きには、さほどこだわりがありませんでした。クリエイティブな仕事に携われるなら、創るものが文章でもイラストでも構わなかったからです。
■ あえてリスクをとった
このあとは、休職期間が終了したことで自動的に会社を離れ、独立してフリーランスになり、「専業」の創造者(クリエイター)になりました。
フリーランスになることは、大きなリスクをともなう選択でもありました。
フリーランスは、会社員とくらべると収入が不安定であるうえに、社会的な信用度が低いため、クレジットカードの新規発行や、住宅などのローンを組むことがむずかしいです。しかも、仕事を続けて行けるかどうかは、その人の技量に大きく左右されます。世間体もけしてよいとは言えません。
このため、私は、みなさんにフリーランスになることをおすすめしません。
にもかかわらず、私はあえてリスクをとり、フリーランスになりました。世間体よりもやりたいことを優先したのです。
これは、技術者としての経験を通して、自分が会社員に向いていないことを悟り、「人生は一度きりだから、やりたいことをして生きよう」という覚悟ができたからです。
なお、私は、現在もフリーランスとして活動を続けています。2004年に独立してから約20年が経ち、25冊(海外での翻訳本をふくむ)の本を世に出してきました。会社には約9年所属していたので、その2倍以上の期間でフリーランスとして活動したことになります。
今回は、54歳になってそれなりに実績を積み、「そろそろ自分の半生を語ってもいいかな」と思ったので、今の職業を選択した経緯を書きました。
■ おわりに 大切な選択の3つのポイント
ここまで長い文章を読んでいただきましてありがとうございます。
私が独立するまでにした選択には紆余曲折があるので、つい説明が長くなってしまいました。
最後に、これまでの話をまとめて終わります。
この記事でお伝えしたかったことは、自分の職業経験を通して知った、次の3つのポイントです。
大切な選択は、健康で、時間に余裕があるうちにしておく
やりたいことが2つあったら、両方やってみる
人生は一度きりなので、大切な選択は慎重に
以上、少しでもご参考になれば幸いです。