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旅行│雨中盛岡行

 一

 先づ初めに盛岡へ行こうと思ふ。

 とは内田百閒著、『東北阿房列車』の書き出しだが、私もその台詞を使うこととする。

 つまり、私も盛岡へ行ったわけである。その目的は、まあ阿房列車ならば行くこと自体が目的、よって目的は無いようなものだが、特段この文章に阿房列車と題していないだけあって、一応目的はある。そも不要不急の云々が云々と云われる昨今、阿房列車のような旅行はもっての外だろう。とにかく目的などはおいおい明かすとして、とにかく始める。

 先ず初めに盛岡へ行こうと思う。

 八月忘日、朝五時ごろ、私の乗る列車は雨中自宅の最寄り駅を出発した。

 昨晩は全く眠れなかった。床について二時間ちかく悶々としたあげくようやく寝たと思ったら、深夜〇時ごろ目が醒めてしまい、また四時ごろに起き、食パンを焼かずに食べて朝食とした。百閒先生とはえらい違いである。

 と、先ほどからさんざ百閒の話を持ち出してはなはだ恐縮だが、この文章を書く上で百閒のことを引き合いに出してしなうのは致し方ないことだと云わざるを得ない。それは第一に私は百閒を愛しているからであり、第二にこの旅の道連れは外でもない、内田百閒著、『第一阿房列車』だからである。先ほどから云っている、阿房列車、とはこの本のことで、まあ内田百閒という変わり者の小説家が書いた、紀行だとか、随筆だとかという風に思ってもらえればよい。あるいはその内田百閒が行った、目的を定めない旅のそのもののことである。

 さて、阿房列車の旅ならば同行は一人、ヒマラヤ山系君と相場が決まっているが、生憎家族に盛岡に用事があるものは一人もなく、また、用事もないのに盛岡へ行ってみようという酔狂な人間も一人もいなかった。なので今度の旅は私一人となった次第である。ならば友人は、という人もあるかもしれないが、今度の目的というのが本当に誰からも理解されないだろうし、そも疫病の危険も格段に高まるのでやめにした。断じて私に友人がいないというわけではない。私は数年前にも一度、大和路をひとりで廻ったが、一人旅も気楽でいいものだ。何より他人の腹の心配をしなくて済む。

 前置きが長くなった。しかし未だ肝心の目的について語っていない。けれども私の乗った列車をいつまでもそこに置いておくわけにもいかないので、車窓の風景を進めたい。

 始発で最寄りを立って、はじめに乗り換えるのは横浜である。ただし、この時点で雨風によって家から駅まで歩くのも大変だったのだが、雨で列車が遅延しており予定の一本後の列車に乗り換えることになった。

 雨の横浜駅は教会のようにやけにだだっ広い。水煙の中を東海道線がやってきて、ここから一気に宇都宮まで窓の水滴を見つめ続けることになる。通勤客はちらほらいるが座れないほどではなく、ひとまず腰かけて一息ついた。ここから利根川のあたりまでは、何の趣もないじめじめした都会の風景が続く。

 みうらじゅんという人をご存じだろうか。話が飛躍したようだが、今回は鉄路の旅、飛行機などには頼らない。よって話は飛躍していない。まあ縁起でもないが脱線はするかもしれない。ここで山系君がいたら「はあ」などと云って曖昧な顔をしただろうが、駄洒落を云ってもひとり。自分で云った冗談は自分で回収しなければならぬ。ともかく、そう、この旅はある意味みうらじゅんのための旅ともいえるのである。

 みうらじゅんとはどのような人か。簡単に云えばロックの人である。もう少し詳しく云えばサブカル界の帝王であり、ゆるキャラ生みの親である。何のことやらさっぱり判らない。けれどそれはみうらじゅん本人にも同じことだと思われる。イラスト、漫画、エッセイ、作曲、イベント、など。活動が多岐に渡りすぎていて、マニアの苦労は計り知れない。ともかくいろいろな下らないことをしているすごい人だ。そして俺は下らないことが好きだ。

 実は「クソゲー」「DT」「ゆるキャラ」などはみうらじゅんが作った言葉で、中でもひときわ有名なのが「マイブーム」である。この言葉、最近は死語なのではなどという噂もあるが、そんなことはない。最新の広辞苑にもちゃんと、『みうらじゅんによる造語』としてマイブームという言葉が載っている。

 そのマイブームを、これから見に行く。そう、盛岡でみうらじゅんの展覧会が催されるのだ。この盛岡の次のみうらじゅんのイベントは、『マイ遺品展』と銘打つらしいから、ある意味みうらじゅん生前最後の展覧会として、盛岡まで見に行くより外にない。これがことの顛末である。よってこの文章はみうらじゅんフェス、というのだが、その宣伝も兼ねている。もう終わったものを宣伝しても仕様がないが、今後の『マイ遺品展』がいつ神奈川で開催されるかわからないから書く。

 そんなわけで列車は宇都宮に着いた。利根川のあたりまで、実に味気のない景色だった。私は日課のごとく寝ぼけ眼でTwitterを眺めていた。都会人らしい、味のある時間の過ごし方である。んな訳ねえよ。Twitter辞めてえ。

 それにしても鈍行、と今は云わないのだろうか。各駅停車なので、車内の時間は相対性理論を加味してもだいぶ緩やかで、外界とは時の速さが違う。説明していなかったけれど、今度の旅はバイト代から旅費を捻出している以上金はかけられぬ。青春18きっぷという、平たく云えばJR乗り放題の、ただし特急などは乗れず、各駅停車のみに乗れる切符を使う。なので盛岡まで十二時間かかる。

 十二時間。途方もない、こともなくもなくもない。暇なときには、持参した本、『第一阿房列車』と車窓の風景に頼るしかない。けれど考えてみれば前述した大和路、京都奈良の旅も18きっぷで往復したし、黙って座っていればそのうち着く。どっしりと構えておれば良いのだ。

 宇都宮も、駅の外に出るほどの余裕はない。乗り換えて、それから列車は雨中いつの間に鬼怒川を越えたのだろう。窓外過ぎゆく風物全てが白く烟って見えるうちに黒磯という駅に着いた。

 駅前は小綺麗だった。そしてこじゃれた雰囲気だった。ロータリーの先に古い和菓子屋、或いは造り酒屋のような煤けた古い店があったが、現代人は多忙なので、というのは嘘、乗り換えの時間は一時間なので、あらかじめ車内で調べていた駅近くのスーパーマーケットに急いだ。

 小雨の中、入ったその大きなスーパーは冷房が効きすぎて寒いくらいだった。ベーカリーのパンを物色して、北関東の小都市のスーパー、さほど期待していなかったが色々のパンがあった。しかし私は海老カツバーガーを買わなかった。何故か。一食五百円前後にしないとあとあと面倒だからである。悲しきかな、その後セルフレジで手間取り、お年寄に会計の仕方を教える係なのだろう、スーパーのおばはんに会計を教えてもらってパンをイートインコーナーで食った。十時ごろなのだがここらで食わなければもう時間がない。

 思いのほか時間が余ってしまった。することもないので店を出て駅へ歩く。先ほど駅前を、こじゃれた、と云ったが、そのとおりで駅前に何があるかというと図書館があるのである。素敵なことだ。詩的ですらある。これこそ税金の正しい使い道というものであり、私はこの小雨の町を、推せる、と思った。

 ということで開館直後の図書館に入ったのだが、一歩足を踏み入れて途端、うわめちゃええやん、と私の脳内お得意の似非関西弁が炸裂した。もう本当に、めちゃええのである。木のぬくもりに包まれた開放的な館内には、一階しか見ていないので全部がそうではないだろうが、NDC、すなわち日本図書十進分類法でなくしてテーマ・カテゴリ別に本が置かれているのである。例えるならば、近年流行りの、私はこの販売形式には正直ちょっと反対なのだが、会計前の本を読めるお洒落カフェー本屋、みたいな感じで、そんなとこどうやって取るん、みたいな高所に本が置いてあるなどするのである。

 私は残りの時間、日経新聞を読んで過ごした。日経の日曜版には特集版のような紙面が毎週組まれていて、とりあえずそれを読めばQOL爆上げ、みたいな気分になれる。

 出口には除籍本があって、QOLが上がった私は糸井重里の本などが気になりもしたのだが、次の列車がある。急いで駅のホームに向かう。駅前ではバザー、のようなことをしていた。

   二

 ここまでつつがなく仙台まで着いた。どこも同じような住宅・田園混在地域を新白河、福島、白石と来て、もはや午後二時である。新白河は競馬の馬券売り場とどでかい東横インが印象的だったが一度も改札を出ず、ようやく仙台で三十分の余裕、と云うべきか猶予、と云うべきかがあるので、外の空気を吸いたい。

 仙台駅は思っていた以上に大きかった。それに駅前の空中回廊、と云っても良いかもしれない。広場には多くのカップル、高校生、会社員、ヤクザ、瓜売りは嘘だけれど、様々の人が行きかっている。大きなセイコーの駅時計も相まって、一種フランス映画のような優美ささえ思わせる、そんな駅だった。

 本当ならば杜の都仙台、雨も上がったことだし緑の大通りを歩きたいところだったが時間もないのでやめにする。次に来るときはぜひ牛タンでも召し上がらせていただきたいものだ。

 車窓は特に変わらずのっぺりと広がる田園やら曇天を背負った雑木林やらが続いて、途中小駅では幾人か学生が乗り降りしていく。時は十五時を過ぎて、心地よい振動に眠気が私を襲う。大抵の列車は終点乗り換えなので良いのだが、それでもなんとなく安心しては眠れない。よって車窓の曇り空とにらめっこすることになる。小牛田、という駅を乗り換えて宮城を過ぎてゆく。

 十六時二十分、最後の乗り換えで一ノ関を降りて、白河やここ一関は古来平泉への関だった。私は司馬遼太郎の『義経』という本を読んで、平安時代のこの辺りは詳しい。というのは嘘で、読んだのはだいぶ前の話であるし、そもそも七割くらい読んだところで挫折してしまった。情けないことである。しかし鞍馬山を出た義経が奥州藤原氏の元へ行くイメージはあって、那須の平原を義経が馬を駆って走ってゆき、やがて奥羽山脈を背に奥州の入り口として白河関、平泉の入り口として一ノ関が現れる。そんな印象だから一ノ関まで来てやっと遠くまで来たという実感が湧いた。

 ここから盛岡まで一時間半ほど列車に揺られる。だいぶ長いしそろそろ尻が痛くなってくるが、何のことはない、ただ黙って座っていれば良いだけの話である。

 などとほざいていてもやはり疲労は溜まっていて、人間座っているだけで疲れるとは難儀な生き物である、一ノ関から盛岡までの時間が一番きつかった。ロングシートの向かいにはカップルがいちゃついていた。それに列車の進行方向には妖しげな雲が立ち込めていて、あれが岩手山だろうか、と麓の稜線を見て見当をつけた山もそのうち見えなくなってしまった。

 十八時、盛岡着。十二時間の列車の旅は一旦終えて、ここで三泊することとする。と云っても一介の学生、もとい生徒である私にそんな大それたところに泊まる度胸はない。もう日が落ちつつある駅前で予約してあるビジネスホテルにチェックインして、今日明日明後日の宿とする。大体たとえば一人で旅館に泊まるというのも、簡単に入水自殺とか拳銃自殺とかしてしまうような文豪には寂寥の念をかき立ててむしろ良いのかもしれないが、私にとってはただただ淋しいだけである。だから宿はビジネスホテルのエコノミーシングルに限る。

 ということで荷を下ろし、と云っても大した荷物ではないのだが、軽やかな足取りで私は夕食をコンビニへ買いに行った。駅前のロータリーには仙台の空中回廊とちょうど反対に地下通路が広がり、雨の心配はない。ちょっと奮発して堅あげポテト、などを買ってしまった私はやはり愚かなのだろうか。

   三

 私は東横インの、このさい東横インと明かしてしまうが、そのロビーでせんべい汁をすすっておった。せんべい汁とは何か。私もよく判らないのだが、とにかく東北の郷土料理のようなもので、汁の中にふやけたせんべいが入っていて、これが普通の麩よりももちもちで旨い。ビジネスホテルにも関わらず、無料でこのような朝食のサービスがあるのはありがたいことだ。無論ご飯や焼き魚などもプレートに付いている。

 昨日はオリンピックの閉会式をテレビで見て寝た。ちゃんと風呂にも入ったから、今日は六時半に目醒めて、テレビを見て、七時に今朝食を摂っている。今日はみうらじゅんフェスを見に行こうと思う。そのためにはチケットをコンビニで買わねばならぬ。会は十時からだから急ぐ必要は何もないが、早めに朝食を摂って洗濯物をコインランドリーにいれて、ホテルを出た。

 外は今日も曇天である。夏だから寒いということはないが、それでも半袖で丁度いいくらいの気温で過ごしやすい。少し風もある。盛岡は東から順に中津川、北上川、雫石川と三つの川が平行するように流れているから、川風かもしれない。ローソンでチケットを買ったのち、岩手山を見に駅の東側の北上川まで足を延ばした。

 開運橋、というらしい。駅から十分もしないところに立派な橋が架かっていて、本当ならばここから北上川の上流に岩手山と対峙できるはずが、厚い雲によってその頂の位置は推し測れなかった。ただ豊かな水の北上川が、上流から昨日の雨をごうごうと運ぶだけである。

 九時半、再び宿を出る。展覧会は駅の西側の施設でやるそうなので、線路を越えなければならないのだが、これが非常に行きにくい。なんとか跨線橋を渡って、ビルに入るとそこが会場だった。

 改めて展覧会の内容を書こう、とも思ったが、やはりよしておく。というのも、本当に内容が膨大過ぎて、ただカテゴリごとに列挙していくようになってしまうような気がするからである。でもまあいくつか例を挙げておくと、カスハガブーム、と称してとてつもない量のカスハガ、すなわちカスみたいな絵柄の絵葉書が陳列してあったり、ゴムヘビブーム、といって縁日の屋台で売られているゴム製のヘビのおもちゃが台の上で大量にとぐろを巻いていたり、エロスクラップ、というエロ本のスクラップが体育館の床一面に並べられた、そんな写真があったり、そこまで多くの人がいたわけでもないが、熱気がすごかった。人ではない、展示物が熱を発しているのである。みうらじゅんの思念、とでもいうべきものがその空間を満たしていた。

 もう、もはや私は、俺は、僕は、じゅ、純粋に感動しておった。

 すべて見終わる頃には午後一時を回っていた。三時間。ひとりの人間の集大成を見て回ったのだから、そう長くはない。むしろ、私の中学のときの教師は、数年前に川崎で行われたみうらじゅんフェスを二日かけて見て回ったそうだから、まだまだである。

 さて、SINCETシャツをはじめとするグッズもしっかり手に入れ、まだ夏の日は高い、といってもぽつりぽつり雨など降りだしてきたが、時間はたっぷりある。ひとまず会場の施設の最上階には展望室があるそうだから、そこへ向かうこととする。昇ってみると、市内を一望できる。西側は雫石川があるからか割と平らな割に緑が多く、開発されているのは幹線道路沿いだけである。一方東側は種々の建物が並び、案外広い町であるらしい。本当ならば北に目を転じてみれば岩手山の威容を拝めるが、雲によって隠れてしまっている。南は開けており、昨日通ってきた鉄道に沿って町が広がっている。

 昼飯は盛岡冷麺に決めた。もういい加減腹が減ったが、こうやって遅い昼飯になっても一人であるから構わない。奈良に行った時も法隆寺で時間を食いすぎて、飯を食ったのは二時頃だった。薄暗い参道の店で、無言で柿の葉寿司を食ったのを思い出す。

 駅前に戻って、盛楼閣、という焼き肉屋、といっても昼時なので頼むのは冷麺だけで一向に構わない。その大盛を頼んで、窓の外を眺めた。先ほどから随分雨が強くなっている。駅前のロータリーが一望できるから、人々がぱらぱらと傘を差しながら地下通路から出てくる。そのうちに冷麺が来た。

 いやに黄色い麺が丸く盛られ、肉、野菜、そして真っ赤な西瓜がひときれ添えてある。見た目は異様ですらある。しかし一口すすって、うわ、うま、と私の脳内で何者かが叫んだ。キムチの酸っぱい辛さと麺の弾力が口の中でぴちぴちいいやがって、旨い。そこに試しに西瓜を一口いってみると、おお、爽やかな甘みがキムチの辛さをうまく中和して、飽きが来ないようになっている。ひとたび食べ始めるともう一気に進んで、量はだいぶあったのだが、すぐに平らげてしまった。

 勘定を済ませて店を出る。いくらかは云わぬが旅先で食い物には糸目をつけてはならないものである。

 武士は食わねど高楊枝、しかし余は満腹。自ずと足取りは軽くなって、駅を離れて開運橋を渡り、岩手公園へ行くこととする。雨はぱらぱら降っていたが、バス通りを進むうちに商店街のアーケードが現れて、気にならなくなった。カラオケ、居酒屋なども並び若い人が多いのが意外である。そのうち商店街の終わりが見えてきて、それでもまだ雨は降っているようなので、脇の本屋に入った。傘は持っているが、そろそろ止みそうに思えるので、時間をつぶそうと思う。

 中はいたって普通の本屋だった。ただ、一回りしてみると郷土の本、宮沢賢治とか石川啄木なんかが集められたコーナーがあって、面白い。数か月前に出た漫画を探してみたが見当たらず、盛岡の夜景が写った絵葉書と、その本屋オリジナルのエコバッグを買って店を出た。会計はロン毛のおっさんでなんだか面白い。

 商店街をでると雨も弱まり、岩手公園はすぐそこだった。濠を渡ると緑のにおいがむっとして、蝉の声もわんわんしてくる。盛岡城あとには、何かの像の台座だけが残されていた。趣があってなかなか良いではないか。ってなことを私は思って、まずロシア革命のレーニン、次にみうらじゅんの銅像を考えた。城跡に共産主義。城跡にロン毛。おおかた像は戦時中に砲丸にでも姿を変えたのだろう。

 不来方城といえば、石川啄木であって、句や歌に疎い私でもこの歌は知っている。というのは、

 不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心

という啄木の歌であり、奇遇、私も十五の心を持つ高校生である。ガチ寝転びしたったろか、啄木よお、おらぁ、などと思いながらここまでの道を歩いてきたので、雨が降っていたのが残念だった。それでも爪痕を残そうと思い、二、三人、遊ぶ子らを見下ろして、お情け程度に無言で腰をこごめて真顔で自撮りし、すぐにその場を立ち去った。人影が見えたからである。私は啄木に敗北した。百閒も若かりし頃、地元岡山の百間川の土手で寝転んで本を読んだという。私も十代のうちに野外で寝転ばなければならぬ。

 城あとを出て、さらに東へ出ると中津川という川が流れており、その東岸にはなかなか味のある建物が多くある。例えば昔の銀行があって、レンガ造りの重厚な建物だった。重厚と云っても明るい色のレンガなので、軽やかにも見える。え、じゃあ質量どうなっとるん、ってなことを思うが、この時点で目的地を何となく定めておったので建物の内部の見学はよした。

 と云いつつも寄り道をして中津川沿いに北へ進む。途中で洒落たカフェーなどもあったが、入らなかった。今思えば、入ればよかった。私は恰好つけている訳ではないがコーヒーが好きで、味などはあまり分からないけれど知らない町でコメダのコーヒーをすするのを至福として生きている。

 この川沿いの道が、またいい。前面の雲の間から山並みがちらちら見え、川風は清らかな水と共に緑の匂いを孕んでいる。よほど両手を広げて深呼吸でもしようかと思ったが、人の目を気にしてしなかった。こういうところに私の卑屈さが現れているのだろう。

 そうして年季の入った消防詰所の横を過ぎて、少し傾いだような荒物屋を過ぎて、私が入ったのは南部鉄器の店であった。そう、土産を買うのである。百閒は土産を荷物になるだけだ、とか云って買わなかったが、第一巻ですでにその志を歳のせいにして曲げ、沢山の漬物などを買い込んでいるから土産を買うことは一向に構わない。というか何もかも百閒を真似て生きていたら現代では社会的に生きていけないし絶対モテない。

 という訳で南部鉄器の店に入り、奥からは子らの声が聞こえる。どうやら孫と祖父母が遊んでいるらしい。ちょうど夏休みだから、この店を営む祖父母の元に帰省しているのかもしれない。店に入る前から風鈴がちりちりいっていて、大変風流である。中津川の川風が天井からずらりと吊られた風鈴を鳴らしているのだろう。汗ばんだ首筋もすぐに乾いて、曇り空の下、町家で私は鉄器を見ていた。

 どれも、黒い。ただの黒ではない。有機ELの画面のように、と云ったら風情はないしつまらないが、木炭のように、溶岩のように、良い表現が思いつかぬ。ともかく、深みのある色ではなく、ただ一色、黒なのだが、それがどこか有機的な表情を見せる。造形も無駄がなく、美しい。

 そも日本的な美というのは簡素にあるのではないか。鎌倉時代の仏像が一番好きだ。逆に、平安時代や室町時代の華美にすぎる建築などは見ていて飽きる。或いは三十三間堂など、そんな建築に鮮やかな色がついていたと考えると、眼にうるさくてかなわない。知った口をきいて申し訳ないけれど、例えば無印良品のようなものを考えるとよい。得体の知れない彫刻だか、飾りだかがごてごてと付いた皿と、無印良品の、真っ白でつるりとした皿。どちらを選ぶかは各々違うだろうが、まず自分は真っ白な方を選ぶ。谷崎潤一郎の、『陰翳礼讃』なども同じようなことではないか。空間に灯りを足して美しくするのではなく、灯りを引いて美しく見せる。そういうことを考えながら見ていたわけではない。私はそこまで面倒くさい人間ではない。ただ、この稿を書いているうちに脱線してしまった。飛躍はしないが、たまに脱線はする。それが鉄道旅の極意である。またおもんない冗談を云ってひとりでにやにやしている。誰か俺を罵倒してくれ。

 南部鉄の風鈴を買った。もとから風鈴が欲しいと思っていて、都会の片隅、狭い部屋に飾っても何の風情が生まれるわけでもないが、テレビジョンのニュース番組などで風鈴市の話題が流れるたび、お、行ってこましたろっかな、そして、買ってこましたろっかな、ってなことを思っていたのだが、生来の引きこもり気質が災いして、風鈴など買う暇もなく夏は過ぎ去ってゆくのが常だったのである。しかし今、私は風鈴を手に入れた。それも南部鉄のである。これでもう、風鈴に困ることはないな、と思って私はるんるん気分でるんるん道を歩んでおったのだが、旅が終わり帰宅後、でかい壺が欲しいな、とか思っている自分を発見し、その欲は今も続いている。兎角俗世の凡人である私の物欲は尽きない。

 まとぞろ歩いてゆくとそのうちにこれまた多くの鉄風鈴がちろちろいっている小綺麗な通りになり、私は今歩いているこの道がどうやら寺社の参道らしいことに気づいた。どうも吉田の浅間社参道に似ている。Google Mapを見ると、盛岡八幡宮とあった。参拝したが、そんなに味のある建物があるわけでもない。機能的な神社である。機能的、というと変な感じがするが、もとより神社に味など求めてはならない。というのは、神社とは祈るための場所であり、神と人とをつなぐための場所である。したがって、その場所が歴史的である必要性はなく、全ての寺社は即刻破壊してこれらを全て空調完備・鉄筋免震構造の拝殿に置き換えるべきだ、とまでは云わない。何故なら私は坂口安吾ではないから。しかし私が思うのは、昨今の観光地についてである。観光地においてたまに、歴史的建造物、と云われる建築物を見学したのち、それが昭和何年だかに再建されたものだと知り、なんだ、拍子抜けした、と口走ってしまう人がいる。しかし我々にそのようなことを云う権利はないし、むしろこれを称賛すべきである。というのは、その、再建、という行為は、あくまで我々観光客のために行ったのではない。地域住民の心のよりどころとして、或いは、もっと直接的に云ってしまうと、儲けるために建造物を再び建てたのである。そして私たちがそこに訪れている時点で彼らの目的は達成せられている。よって私たちはその再建という勇気ある行為に敬意を示すべきなのだ。

 そもそも、観光地と呼ばれる場所の中には、観光客のための場所ではないことも多い。その主たるものが寺社であって、そもそもは前述のとおり神仏と人とをつなぐ場である。それなのに建物を学術的な視点で見たり、ただ建築に感心して帰ったりするというのは野暮だと思う。もっと心で、魂で本質を感じるべきだ。

 そんな爺いの妄言のようなことつらつら書いているうちに、レンガの煙突の銭湯を過ぎ、坂道を下り、先ほどからの目的地に着いた。

 どこか。

 赤、青、黄の三つの色に彩られた新古書店、そう、我らがBOOKOFFである。盛岡にもちゃんとある。そして私は、ここに来るためにえんえん歩いてきた。結局旅に出てもすることは地元と変わらない。

 店内で一時間ほど立ち読みをしていた。欲しい本は無かった。よって金は使っていない。経済的と云えば経済的だが、店全体、或いは日本経済で見てみれば非経済的極まりない。

 しかしそれにしても、BOOKOFFの安心感は何なのだろう。中学時代の私は、BOOKOFFなんて高校入ったら行かねえだろ、週一で神保町通いだわ、ってなふざけたことを思っていたが、そんな馬鹿なことはしない。やはり近所のBOOKOFFである。第一神保町に少年・青年誌はないやろ。

 いつだったか、春に富士吉田に行った時にもBOOKOFFで立ち読みをして、本を買った。駒ヶ根に行った時も、BOOKOFFで立ち読みをして、それから天竜川を見に行った。旅と本とは相性がいい。ということは、BOOKOFFはなおさらである。それに、その町の古本が集められて、その店に並んでいると思うと、もうそれはその町そのものなのではないか、なんて、そんなことさえ思ってしまう。

 帰り道、ほの暗い路地を遠い山並みを眺めつつ歩いた。老婆が軒先を箒で履いていた。やがて商店街が近くなると街はにわかに若者の声で騒がしくなった。この町は活きているな、と思った。人々の営みはそれぞれの地で、日々連綿と続いてゆく。

   四

 そのうちに目を醒ましたらしとりとした霧雨の朝だった。宿での朝は家での朝とはまるで違う。なにか、新しい世界に生まれたような、そんな気すらする。

 顔を洗って髪を洗ってコインランドリーで服を洗濯し朝食を摂り、さて、することがない。そもそも私はみうらじゅんの展示を見に来たのだから、至極当然のことである。なにも宿に三泊する理由は何もない。内田百閒ならば、などと考えてみても、この人は寝坊の人で、午頃に起きてそれからすぐに汽車に乗ってしまうから、参考にはならない。とりあえず、雨の町を歩くこととした。

 盛岡に来る前から考えていたことがある。というのは、ご存知だろうか、きのこ帝国、というロックバンドの話である。そのフロントマンの、佐藤千亜妃、という人は、盛岡出身なのである。よって、彼らの「桜が咲く前に」という曲のミュージック・ビデオには盛岡の風景か多く登場する。昨日の夜もMVと共にその曲を聴いてみて、僕は泣きそうになった。

 その風景を見に行くべきではないか。まずは、そう、懐かしいような遊園地のシーンを見に行こうか。調べてみると、少し遠いが歩いてゆけないことはない。私の足は町の東へと向かう。

 雨の中、白くけぶる町を傘の私が歩いてゆく。

 きのこ帝国というバンドは、私が初めて音楽というものに触れて、それから三番目にのめりこんだバンドだった。ノイズの豊かな破壊的なサウンドにボーカルの浮遊感ある透明な声が心に沁みて、高校受験の年、塾の行き帰りに耳が壊れそうな音量で聴きながら歩いた。

 ぶっちゃけ全く見知らぬ人の音楽の趣味なんて俺自身興味ないのだけれど、この、雨中盛岡を歩いている時間にもう少し語ってしまうと、銀杏BOYZ、スーパーカーというバンドがあって、これらは四、五番目に好きになったバンドであって、これらも塾の行き帰りに鬼リピしておった。その二つのバンドもそれぞれ山形、青森と東北出身であって、何となくこの旅行を通して東北に郷愁のようなものを感じていたのである。

 さて、そんなことをつらつら述べているうちに、私がどこを歩いていたかというと、山道を歩いていた。山道。んなアホなことがあるだろうか。学校の並ぶ墓地のような通りを抜けて、段々に道が入り組んできたなあ、なんて思っていたら、そのうち坂が急になって、舗装が途切れて、完全なる山道になっていた。足元は砂利で、たまに生い茂る草本が行く手を阻むので、虫が付いていないか細心の注意を払って確認したうえ、傘を持たない方の手でもってこれを払いのける必要がある。そう、雨は強くなりつつあった。完全なる山道を私は二十四本傘をさして歩いていた。安物のサンダルを履いて登っていた。醜く息切れしながら進んでいた。

 三十分ほど登っただろうか。前方が開けて、展望台だった。展望台というのは展望するための台なのだろうが、展望できなかった。では何だろうか。絶望台、なんて。白い霧、雲によって市街は遥か彼方の海の底に沈んでいるかのようだった。私はたった一人で丘に生き延びた人類として、缶コーヒーを買って飲んだ。不味かった。不思議に冷静な私がいた。

 MVの遊園地は歩いてすぐのところにあった。雨で休園していた。休園を告げる看板を見て、ふうん、と私は思った。私は超然としていた。国府津駅で雨の中一時間汽車を待った百閒はこんな気持ちだったのだろうか。遊園地の向かいはゴルフ練習場になっていて、車を停めた年寄がゴルフバックを抱えて建物に入っていく。そんな光景を眺めているうちに、何故だか、遠くに来たのだな、という実感が湧いてきて、私はそれで満足して今度はきちんとした舗装路を降りて町に戻った。やるじゃん、Google Map。

 腹が減った。ちょうど十二時で、良い時間である。そこで、かねてから調べていたホテルの北にある喫茶店でカレーを食って、それからコーヒーを飲み、服はびしょびしょだったけれど腹と心は満たされた。すぐそこに盛岡で有名らしい、福田屋というパン屋があって、コッペパンを売っている。私は、夕食として、とんかつとあんバターのコッペパンを買って、時計を見ると一時前だった。

 さて。どこへ行こう。しかしまあこういった場所で暇つぶしというものは限られていて、特に私のようにゲーセンのヤンキーに恐怖心と決して満たされることのない反抗心を抱き、常に心の奥底にぼんやりとした不安を抱えながらふらふらしているような者に暇をつぶしに行く場所などそうそうない。

 BOOKOFFである。

 盛岡三日目にして、私は二度目のBOOKOFFに行った。しかし同じBOOKOFFに行くのも芸がない。少し歩くが、町の西側、雫石川沿いの店舗に行くこととした。

 雨のまちのしっとりとした息づかいを感じて、歩いてゆく。雨音を吸い込む校庭、交差点の往来を見つめるスーパー銭湯、雨雲を背負った新幹線の高架。そんなものを見ながら歩いて、そのうち雫石川だった。爽やかな緑が土手を覆って、川面は望めない。ただ灰色の空が向こう岸に続いて、そこから青い風が吹きつけてくる。夏だというのに、すこし肌寒いくらいだった。きっと川は降り続く雨で増水して、遥か山々の水がごうごうと流れているに違いない。

 BOOKOFFはやはり空いていて、立ち読みも苦ではない。しかしもう昨日で立ち読みは飽きた。欲しい本だけ何冊か買って帰ろう。ってなことを思っていたら、いつの間にか銀杏BOYZのCDと、浅野いにおの漫画と、よつばと、という漫画を買っていた。むっさサブカルやん。あほか。荷物になるじゃん。浅野いにお読む自分恰好良いとか思ってそう。文庫本にしとけよ。みんな、お願いだからそんなことを云わないでほしい。言葉によって私の心を傷つけないでほしい。これから先、私はよつばと、を読むたびこの雨の盛岡を歩いたことを思い出すようになるのかもしれないのだから。

 ホテルに戻るとまだ十五時だった。けれどすることがない。とりあえず浅野いにおを読み終わってしまって、頭が痛くなりそうな内容だった。

 コッペパンを食って。寝たのは二十時だった。

   五

 眼が冴えてしまって、ベッドに横たわったまま窓の外をうかがうと、狭い空にいくつか星が瞬いているのが見えた。銀河鉄道の夜、という話を思い出して、不思議と静かな気持ちだった。例の銀杏BOYZの曲にも、『銀河鉄道の夜』という歌がある。

 いつまでも寝床の中にいても仕様がない。顔を洗って、ホテルを出たのは夜明け前の四時頃だった。盛岡に来てまず初めに来た開運橋をまた渡って、北上川の土手でコンビニの朝飯を食った。朝日に彩られて千切れた雲が岩手山のあたりを漂っていて、結局岩手山は四日間一度も見えなかった。盛岡にまた来る理由ができた。

 五時十分の列車で発った。盛岡はいつも川風が渡って、少し古びた町の香りと自然の香りがまざって、ところどころを滞っていた。流れる三つの川は、まるでひとつの物語のようだった。

 車内には私のほかに女を連れたマイルドヤンキーしかいなかった。マイルドヤンキーと女は名も知らぬ小さな駅で降りていって、私ひとりになった。

 一ノ関で乗り換えをして、延々と続く田園風景の中をひた走り、夏の朝、爽やかで気持ちが良い。勤め人と共に工場のような仙台駅に入った。今度は行きとは変えて、海沿いの路線を通って帰る。九時ころに常磐線に乗って、南相馬の原ノ町というちいさな町に着いた。くもり空がよく似合う、しずかなさみしい町だった。駅前には東進があった。それから道があった。そのくらいだった。荷物をコインロッカーに預け、コンビニを見つけて飯を買い、少し歩くと公園があるというのでそこで食うこととする。住宅街や廃材置き場、林の中のテニスコートを過ぎて着いた公園に人の姿はなかった。

 公園に入り、ちょっと盛り上がったところに腰かけてみると、緑の林越し、道路のはす向かいにこんもりと重たそうな土の建造物が見える。どうやらそれは古墳で、この公園もその古墳に付属してつくられたらしい。もしかしたら今座っているこの段々も、古墳を模しているのかもしれない。

 それにしても静かで、聴こえるのは蝉など夏虫のこえと、公園の一段下の畑を耕すトラクターの音だけだった。耳を澄ますと、かすかにテニスコートのざわめきが聴こえるような気がする。木々が風にざわざわと音を立てる。公園の裏手は川が流れているらしい。世界には私とトラクターのおっさんだけなのではないか。遮るもののないまま遠く広がる薄い灰色の空を眺めて、そんなことを思った。

 のろのろと畑を耕すトラクターを見下ろして、私ものろのろとコンビニの炒飯を口に運んだ。風は爽やかだったが、曇り空の下、水気をはらんだ夏の空気は重く感じられた。ほととぎすが鳴いている。黙って食って、それからカネコアヤノを聴きながら駅に戻った。

 やがて到着した列車に乗り込み、ぐるりを見渡すと、列車に揺られているのは小さな男の子と、その父親と、私だけだった。男の子はしきりに膝立ちをして窓の外を覗いていて、殺伐とした景色をそれでも興味深そうにいつまでも見ていた。そんな男の子の姿を、父親は穏やかな目で見守っていた。そんな二人の姿を、私は文庫本を読みつつ卑屈な上目遣いで盗み見ていた。

 私は阿房列車を読んでいた。なぜこんなにもおもろいのだろう。もしも百閒が現代に生きていたら俺はどうなっていただろう。発狂していたと思う。というか僕は発狂したい。しらふでいるには辛すぎるよ、この世は、ってな悩みもまあ阿房列車読めば解決する。あと町田康な、あれは読む麻薬だから。もうえぐいからね、試しに既読の小説の適当なページを開いてみれば、たちまちハマって、尿意、食欲、性欲、すべて忘れて没頭してしまう。ニルヴァーナと一緒や。いや違うやろ。

 活字の海に疲れると、そんな会話を頭の中で繰り拡げて暇をつぶしていた。一時間ほどしていわきに着いて、また詰まらない景色を走り続けて茨城の勝田という駅で乗り換えた。

 そして、横浜に着いた。

 悲しい。

 淋しい。

 淋しい、熱帯魚。

 そんな言葉が頭の中をぐるぐるしている。

 俺はあ、俺はあ、今日の朝には盛岡におったんやでえ。盛岡でええええええす、も、り、お、か。お前ら盛岡分かるかああああ。

 そんなことを真っ赤な顔で絶叫して、俺は周囲の人々から蔑みのまなざしを向けられ、自分のみじめさとどん底にいる高揚感でビンビンに興奮している。口角に白い泡が溜まっている。俺は薄汚れた駅の通路に横たわった。

 そんな妄想をしながら、私は横浜駅の雑踏を真顔で歩いていた。

(2021年秋執筆)

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