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『物語の体操』/本・物語論

なぜ人は物語るのか
オリジナルのカードや方程式を使ったユニークなプロットやキャラクターの作り方を通じて、あなたの「物語る力」を再発見し、リハビリし、発達させるトレーニングとなる全六講義に補講を書き下ろし。徹底して実用的な物語入門書の形をかりながら、「なぜ人は物語るのか」という問題を根本から考え直すためにかかれた批評書、待望の復刊。

 本書の目的は以下で、とても明確。

 ぼくがこれからお話ししようとすることは多分、二つの意味あいを持っています。一つは批評としての意味あい、そしてもう一つは極めて実践的な意味あいです。批評的な意味合いとしてぼくの頭の中にあるのは、小説家の小説を書くという技術なり能力はどこまでが小説家にとって特権的な領域で、どこまでが小説家ではない普通の人々に共有されうるのか、という問いです。(中略)彼らの小説を書く力はどこからどこまでが凡人には真似できないもので、どこまでならば凡人にも真似したり学習できてしまうものなのでしょうか。ぼくはこの講義を通じて、その線引きをしてみようと思います。
(中略)ところでそうやって小説を〈秘儀〉の領域と学習可能な領域に腑分けしていく作業は結果として小説を書くという行為を徹底してマニュアル化していくことにもなります。それがこの講義の持つ二つめの意味あいで、ぼくはそこで小説を書くという「宿命づけられた」行為をどこまで普通の人々に「開いて」しまえるかをこの講義を通じて実験してみようと思います。

p.6-7

・タイトルどおり、物語を書く訓練をして力をつけるための実践をするんだけど、いちばん最初のやつがこれ。

 例えばみなさんに今から四〇〇字詰めの原稿用紙に向かって五分間で〈おはなし〉の粗筋を一つ作って下さい、とぼくが課題を出したとします。二〇〇字からせいぜい二〇〇〇字ぐらいでまとめられている小説のための〈おはなし〉をプロットととりあえず呼びます。ポイントはこの字数の中に〈おはなし〉の最初から最後までをちゃんと入れることです。

p.12

 これだけ実際に書いてみたんだけど……のちほど。

・第一講で『聖痕のジョカ』(懐かしい!)で使っていた、グレマスの記号論の行為者モデルの変形や、第二・三講で『マダラ』(懐かしい!)や『黒鷺死体宅配便』(しばらく追ってないけどまだ続いてる……よね?)の作り方をかなりバラしてるのも、ファンとして嬉し楽しい。
 このあたりを読んで、TRPGのF.E.A.Rのシステム、特にトーキョーN◎VAとブレイド・オブ・アルカナで、キャラクターを作ること自体に夢中になったことを思い出す。まんまタロットだし。キャラクター自体の物語をさっと作れたんだよなあ。それぞれのシステムで細かくは違うけど、あれは図6(p.33)の過去・現在・結末をライフパスなどで、援助者・敵対者・近い未来をコネや因縁・シーンカードで上手いことハメることだったんだなあ……。

・第四・五・六講ではそれぞれ、レッスン教材として、村上龍、行きて帰りし物語、つげ義春などを挙げていき、私小説と、キャラクターとしての私小説と、キャラクター小説について展開していく。
 で、いちばん最初のプロットを書いてみるレッスン、自分が書いてみたのがまんまと、「キャラクター化した私」が「行きて帰りし」話だったので驚いてしまった。たぶん、書きやすさとか、キャラクターというものの親和性とかがあるんだろうけど……なんだろうな。
 たぶんこの辺は『キャラクター小説の作り方』のほうでもっと書かれてそうなので、期待する。

・あとがきの教養小説についてがめちゃくちゃ面白かった。ヨーロッパ、特にドイツの教養小説(ビルドゥングスロマン)と、日本の近代文学の比較。
 スーパー刺さったので、かなり長いけど中略しながら引用する。

 人は何故、物語ろうとするのでしょう。(中略)その時、改めて自明となるのが「私探し」とか「自己実現」とか、言い方によってはひどく陳腐にも聞こえる目的です。(中略)
 そうではなくて、ぼくは第三者にことさら理解されることを目的とせず、あくまでも「私」の所在について確認し、輪郭を与えるための「私の物語」がそれとは別に存在していい、と考えています。
(中略)
「物語の構造」はそもそも「私になるためのプロセス」をまさに「構造」としてあらかじめ持っています。一方では、この国の近代は「私になる」という問題を「言文一致体で私ついてカミングアウトする」という形式と結びつけ、一般化しました。問題なのは、この二つの形式が混合されたことです。つまり「私」についてカミングアウトし「私をわかって」と書くことが「自己実現」と錯誤され、「自己実現の物語」の「書き方」として一般化されてしまったのです。(中略)
 文学に関わる人が「教養小説」をあまり書かなかったとしても、大衆小説がこれを代行してきた歴史があって、あまり問題はありませんでした。(中略)
 しかしwebという形式が登場して、一つの新しい問題を生じさせました。それは「私について書く」という機会が等しく誰にでも与えられるインフラとして登場したことです。(中略)
「私をわかって」ということばは多量に発信されるけれど、実は「私を自力で何とか大人にする」という種類のことばなり表現は全くもって不在です「教養小説の不在」がこの国の文学の特徴だとすれば、webでも同じことが起きてしまっているわけです。だから誰もが「私」について書き始めてしまった以上、「私をわかって」ではなく、自分で自分を何とかする「私」の「書き方」、つまり「自前の教養小説」が必要なんだ、ということです。

p.252-260

 このへんはこう……noteという場で語るにはものすごくデリケートな話題だけど、とてもクリティカルだよなあと思います(やんわりと表現しています)。
 いや、自分を棚に上げてるってのはわかってて、わかってるので余計に。ほんとに。

 とはいえ、本当はここで「教養小説」なんてないし、そんなもので「自己実現」などできない、とポストモダニスト的にそんなものは「ない」と言った方がいいのかもしれません。「私」も「社会/国家」もないよね、と。とはいえ、(中略)やはり「私」や「私のいるべき社会」を探してしまうものです。しかしこのあらゆるものが流動的で世界の仕組みが全くのブラックボックスに入っているような時代では「私」についての「単純な答え」はないわけです。(中略)
 ですからぼくが各自が必要とすと考える「自前の教養小説」とて、「私のあるべき姿」を「正解」として示すわけでも、「生きるべき場所」を「ここだ」と示すのでもなく、ただその過程、つまり「構造」を経験するためのものでしかない、と冷静に理解すべきです。これはあくまである種の対症療法にすぎません。つまり「私という病」にとり憑かれたら「私をわかって」ということばを連ねるのではなく、むしろ「自前の教養小説」で症状を緩和すればいい、ということです。

p.264-265

 めちゃくちゃ面白い……!!!
 というか、あまり自分について言及したくないのでこれを書くのはイヤなんだけど、まさにこれが、いまの自分がぶつかっている困難さのような気がするんだよなあ。
 という曖昧なんだか直裁なんだかわからないことを書いて終わります。

 いやー、これで面倒なのが、曖昧な、いわゆる匂わせ的な言い方も嫌いなんだよね。やっといてなんだけど。すぐに言う気がないならまどろっこしいからもういいです、ってなっちゃう。
 ……というような自分語りが、抑えようとしているのに出てきてしまうということに本当もう嫌になるが、これ自体、本書で指摘されていた日本語という言語の問題が……


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