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坂ノ上不動産 前編

 暗く急な階段を上り、薄暗い廊下をつきあたりまで進んだ扉に書かれていた。

『坂ノ上不動産』

 他の部屋は使われていないのか建物内は死んだように静かで、廊下の蛍光灯はちかちかと点いたり消えたりを繰り返している。
 薄暗くどこか陰気でじめじめとした匂いのこもる建物だった。

「ごめんください……」

 恐る恐る扉を開けると扉はぎいと甲高い音を立てた。蝶つがいの部分が錆びているのだろう。廊下に大きく響き渡る音が気恥ずかしく、女は居心地の悪さを感じた。
 部屋の中を見ると、中には本棚とデスクがひとつずつ、そして黒いソファーが壁際にあった。本棚の横にはハンガーラックがあり、黒色のスーツが掛けられていた。
 デスクにはパソコンが置かれ、そのパソコンのキーボードをぱちぱちと男が叩いている。
 白いワイシャツを着た細身の青白い顔の男だった。目が細く狐に似ている……と、女は思った。ごくありふれた服装でその場に座っているだけなのに飄々としてつかみどころのない。そんな男であった。

「いらっしゃいませ」

 男は女が部屋の中に入ってきたタイミングでキーボードから手を離し、にこやかに女を見つめた。
 もとより細い目をさらに細め、精一杯の愛想を作っているようだった。ただ言葉を機械的に発しているだけの感情の込められていない接客。男の持つどこか突き放す雰囲気に女はそう感じた。今すぐ帰りたくなったが扉を直ぐに閉める勇気は持てなかった。

「こちらへどうぞ」

 男はゆっくりと立ち上がり、女をデスク前の椅子に座るように促した。

「お部屋をお探しですか? それとも何かお困り事でしょうか?」

 男は表情を変えずに笑顔を貼り付け微動だにしない。ただにこにこ突っ立っているだけだった。
 この男を信用して良いものか一瞬悩んだが、ここ以外に他を知らないので、観念して男を頼ることにした。

「ちょっと困ってまして……今の私の部屋なんですけど……日当たりも生活するには立地も良くてとても気に入ってるんですけど」

 女はスカートの裾を少し整えながら椅子に座った。椅子を引くとぎいと大きな音が鳴り、やはり少しばかりの居心地の悪さを感じた。

「静かで他に誰も住んでいないようなところなんですけど……」
「ほう、それは素晴らしい物件ですね」
「それなのに先週くらいからニ階の部屋に人が住み始めて」
「ほう」
「そのぉ……うるさいんですよ。それに怖いですし。何人かでいつも夜に騒いでるんです」
「今のお住まいのご住所はどちらですか?」
「あ、はい。世田谷区世田谷4の21の山吹荘です」

 男はパソコンで住所を打ち込み、マウスを何回かクリックした。モニターに山吹荘の画像が映し出された。
 建物の周りは雑草が生い茂り、壁には大きなひびが入っている。

「ああ、とても居心地の良さそうな物件ですね。階段の手すりなんて無いじゃないですか。ここに人が集まっていると?」
「そうなんです。勝手に住み着いてるんじゃないかなって」
「ああ、なるほどです。よくある話です。この季節は暑くも寒くもなくちょうど良いですからね」
「困るんです。せっかく気に入ってたのに……住み慣れた場所なんです」
「何年くらいお住みになってるんですか」

 女は指を数え始めた。両手の指を曲げきったところで

「10年以上前くらいですかねぇ……でもよく覚えてません。記憶も曖昧で……ふらふらと歩いていたらここにいたので」
「元の場所にいなくて良いんですか?」
「元の家は新しい家族が住んでるので。時々会いに行ければそれで良いんです。近くて歩いて行けるんですよ」
「それはなおさらですね」
「そうなんです。便利ですし、良いところなんです」
「ええ、わかりました」

 男はデスクの上に置いてあったラミネート加工をされた用紙を取り出した。値段がいくつか書かれている料金表だった。

「私が全て請け負う場合の値段はこちらです。アドバイスをさせて頂いてお客さまの方で対応される場合の値段はこちらです」
「ずいぶん値段が違いますね……」
「どちらもリスクはあるのですが、リスクを私が負うかお客さまが負うか……の違いです。あと、私でしたら確実に遂行できます。プロですので」

 女ははっとして顔を上げた。男は相変わらず作り物のような笑顔を顔に貼り付けている。
 しばらく考えてから

「私がやってみてそれでダメだった場合、その後にお願いするのは大丈夫ですか?」
「もちろん」
「じゃあ、こっちのプランでお願いします」
「かしこまりました」

 料金表を引き出しの中に仕舞い、後ろに掛けられているスーツを手に取った。女も思わず椅子から立ち上がった。

「これから別件で外に出ます。山吹荘を見たいのですが、ご一緒できますか?」
「はい、大丈夫です」
「それは良かったです。では一緒に参りましょう」




続く…

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