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エレガント物語(改)

※高校生の頃に書いた小説を大人になった今、作り直してみました。

↓高校生の頃に書いた小説


 この物語は、マダムとナルシストの不毛極まりない何の実りもないどうしようもないご近所抗争の記録であると同時に、それを取り巻く人々の愛と憎悪と罵り合いと競争と喧嘩と妬みなどのいろいろな物語であるかもしれないし、そうでないかもしれない。
 とにかく間違いなく言えることはタイトル詐欺だということである。



1.マダム・メルシィー

 赤い絨毯に膝をつき、首を傾け微笑んでいる白い像の前で手を合わせ長いまつ毛をふせる。ひとつ深呼吸をし、気持ちを落ち着かせこの願いが神に届くようにと静かに深く祈りを捧げる。

 夫の魂が今日も健やかでありますように──

 彼女の夫は五年前に亡くなっている。今も変わらず夫を愛し、きっちり分けられたブロンドの髪も、優しげに下がった眉も、青い瞳も、通った鼻筋も、名前を呼ぶ声も全てを覚えている。
 一緒に過ごした時間は決して長くはないが、その人を思い出さない日は無かった。貴方の存在は今でも強く心に刻んでいます。心穏やかに天から私達を見守っていて下さい。

 夫の魂が今日も健やかでありますように──

 では、名残惜しいですが、そろそろ行きますね。また来ます。えっと……ええっと。名前は……名前は何だっけ? ボ、ボルシチ? ボルネオ島? ボルドー液?

 つぶっていた瞳をゆっくりと開けた。
 目の前には穏やかに微笑んでいる像がある。
 すっくと立ち上がり、スカートについた皺を軽く整えた。長椅子に座っている他の参拝客に軽く会釈をし、赤い絨毯の上を静かに歩くと教会から出て行った。
 薄暗い教会を出ると、日差しが眩しく目がちかちかとした。

「マダムーっ!」

 遠くから誰かがこちらへ向かって走って来る。レースのついたエプロンを着て、ひらひらとスカートをなびかせ手を大きく振りながら全力で走って来る。

「日傘を忘れてますよー!」

 家の使用人のジェシーである。

「日焼けはお肌の大敵で──」

 その時、ジェシーは大きく前につんのめった。石もないような平坦な道でつまずいたのだ。

「はわ、はわわわわわわわ……」

 顔面から地面にスライディングをし、大きな土煙を上げながらマダムの前まで地を滑って来た。それでも手にはしっかりと日傘を持っている。

「あらあら、大丈夫?」

 ジェシーが顔を上げると顔面は血だらけで、レースのエプロンは破れ、履いていた白いストッキングはズル剥けであった。

「えへへ、ポカやっちゃいましたっ! でも日傘は持って来ましたよ」
「まぁ、ありがとう。ジェシーは本当にうっかり屋さんね」
「はい! 元気とやる気とあざとさだけが私の取り柄ですからっ」
「家に帰ったら手当をしないとね」
「はい!」

 マダムはジェシーから日傘を受け取り、ばっさと広げると真っ白なレースの日傘は大きく影を作った。その中にぼろぼろで血だらけのジェシーを入れてやり、二人は家路を戻るのであった。

 血だらけの少女と、金色の髪をなびかせてゆったりと微笑む女性に通りを歩く人々は振り返った。
 いつでも笑みを絶やさず、物腰は穏やかで誰にでも分け隔てなく優しい彼女の名はメルシィーと言った。蝶よ花よと大切に育てられ、完全なる温室育ち。人を疑う事を知らず空気は読まず、感情の機微には恐ろしく疎い。
 彼女の住まうゴージャスタウンは貴族の集まる優美な街である。その中でもひと際大きく立派な屋敷がメルシィーの生家だ。貴族の中の貴族。元々名家の生まれだった彼女はそこそこの名家に嫁ぎ、すぐに出戻った。なぜなら嫁いだ先の夫に先立たれ、面倒な揉め事に巻き込まれたからだったが、それはまた別の話。
 メルシィーは夫と過ごした楽しい美しい日々だけを思い出に生きているのだが、その記憶も曖昧で夫の名前すら忘れそうになっている。つまり彼女はとんでもない残念なおつむの持ち主なのだった。頭の中はいつも美しい花畑が広がり、花畑は枯れることはなく、いつもいつもいつもいつもうざいくらいに咲き乱れ足元の道を消している。
 そんな危うい彼女を支えているのがこの家に生まれた血である。生まれが恵まれている。ただそれだけ。今日も脳内お花畑な言動を一切慎むことなくメルシィーは我が道を行くのだった。

 家の前に着くと、金色の格子の門は勝手に開いた。噴水の奥に見える赤いレンガ造りの屋敷がメルシィーの住む邸宅だ。門から玄関までは白い石が敷き詰められた道ができ、その左右には切り揃えられた庭木が規則正しく並んでいる。
 ちょうど専属庭師の若者が門の近くの植木を手入れしていた。

「お帰りなさいマダム。郵便物がいくつか届いていましたよ。玄関先にまとめて置いてあります」
「わかったわ。今日の庭もとても綺麗ね。ありがとう、ポール」
「ところでジェシーはまた怪我をしたのです? 本当にいつもいつも服をダメにしてばかりですね。血で庭が汚れるので中に入らないで頂きたい」

 ポールはにこやかに微笑みながら木の枝を切り落とし、辛辣な言葉を吐いた。
 ジェシーの歩いて来た道は流れた血で足跡がついている。

「そんなぁ、酷いですぅ。日傘を届けに行って転んだんです」
「転んだというより事故ですよ。一体どんな転び方をすればそんなに流血できるんですか。この前も二階のバルコニーから転落して花壇の花を潰しましたよね。いっそのこと首の骨を折って死ねば良かったのに」
「ふぇぇぇ、酷いっ」

 切りバサミでひと際太い枝を切り落とし、切っ先をジェシーに向けた。ジェシーの顔からは先ほどの転倒で怪我をした箇所より血が滴り落ちている。

「まぁまぁ、ポール。許してあげて。ジェシーには悪気は無いのよ。この子はこんなに血を流してもへっちゃらなの。強い子なのよ。それだけで凄いことよ。人は息をして生きているだけで尊いの。さ、着替えをして傷の手当てをしないとね」
「マダムぅ、優しい! 大好き、ありがとうございますぅ」

 喜びの涙を流しながら、先を歩くメルシィーにジェシーはついて行った。その時、ポールを振り返り

「チッ……庭師ふぜいが調子こいてんじゃねえぞ」

 メルシィーには聞こえないように言葉を吐き捨てた。
 庭を汚すジェシーと庭の手入れするポールは大変仲が悪かった。メルシィーはそのことには一切気付いていない。家で働く者達は家族も同然、仲良しこよし。それを信じて疑わない。

 白い石の上にぽつりぽつりと赤いシミを落としながら二人は玄関に向かった。玄関前までつくと、扉は勝手に開き、大理石の床の上にダンボールがひとつ置いてある。

「さっきポールが言っていた郵便物ね」

 扉を開いた使用人にさしていた日傘を渡し、メルシィーは郵便物の中を確認しだした。父親宛に届いた書類や、屋敷で雇う使用人宛の手紙の中に金色の封筒が一通混ざっている。封蝋には舌を出したユニコーンの紋章。それは城から出された郵便物であることを示している。

「マダム! もしかしてこれは!」
「今年もこの時期になったのね」

 封を開け、中を確認する。

『招待状』

 流麗な文字で城の舞踏会への参加を促す文面が書かれていた。



2.麗しの講師

 ナルシィーは教室の教壇に肘をつき、銀色の手鏡で己の姿を眺めていた。うっとりと眺めていた。長い前髪を一生懸命に整え、上からも下からも前後左右に自分の顔を鏡に映しては眺めている。
 カルシィーはまるで汚いものを見るような冷たい視線でその動きを見ていたが、ふと鏡ごしにナルシィーと目が合った。鏡の中の男はにっこりと笑った。背筋が凍った。思わず手にしていたペンを落とし、転がったペンは隣りの席に座っているステフの足にこつんと当たった。

「あと何分で授業終わるかなぁ……」

 ステフはぽつりと独り言をいいながら足元のペンを拾ってカルシィーへ投げる。投げられたペンをカルシィーは難なく受け止めた。

「今日はほとんど自主学習だったな。あの人は授業をする気もないんだろう。この学校に通う意味が俺にはわからない」
「それはそれで楽だから良いんだけどさぁ」

 ステフは体をカルシィーに近付けてさらに小声で言った。

「この後、マリンちゃんと会うんだよ。画材が足りないって言うから金を渡しに行ってくる」
「ああ、絵を描いているところを一度も見たことのない彼女か」
「いや、今回はかなり大掛かりな絵らしくて完成までに時間がかかるって。真っ先に俺に見せてくれるって言ってんのよ。健気じゃん? 俺がパトロンやめたらあの子の絵は一生完成しないんだよ」
「いや……何度も言うが、君は騙され──」

 その時、教壇にいたナルシィーが椅子から立ち上がり、どこからか真っ赤な一輪のバラを取り出した。

「そこ、ちょっとうるさいな」

 手首のスナップをきかせ、持っているバラを投げる。バラは勢い良く一直線に飛んできてステフの机の上に刺さった。その時、バラから一枚の花びらがひらりと落ちた。

「この自主学習の時間をお喋りで無駄にしないでくれたまえよ。与えられた時間を有効に使えるかどうか。時間とどう向き合っているのか。一流の貴族は時間を無駄にしないものさ」

 生徒の座る机と机の間を通り、ナルシィーはゆっくりとステフの元へと近付いて来る。彼が歩いた後は濃厚な香水の香りが広がり、近くに座っている生徒達の中にはむせる者もいた。

「時間は全ての人に平等に与えられている。貴族もそうでないも者も。それを有効活用するかどうかは、君自身に委ねられているのさ。今日の僕がほとんどを自主学習に当てている意味をよぉく考えたまえ」

 ステフの横まで来たナルシィーは机に刺さったバラを取り、顔の近くまで持って来ると花の香りを嗅いだ。うっとりと目を細め、鼻から空気を吸う仕草が癪に障る。そして、おもむろに持っているバラでステフの頭をぱしりと叩いた。

「痛っ……」
「ステフ君。君の成績は下の下の下だよ。一体何をどうしたらこんな残念な成績を叩き出せるのかね。正直に言って、君はここにいる資格がないのだよ。僕が何とか掛け合って君の面倒を見ているのだけれど限度ってものがある」

 くるりと体を反転させ、何枚か花びらの散ったバラを振りながらナルシィーは教壇へと戻りに行った。その時、カランコロンと鐘が鳴った。終礼の合図だ。

「はい、じゃ今日はここまで。では、また明日。ごきげんよう」

 生徒達の方を振り返ることもなく、ナルシィーはそのまま急いで教室から出て行った。取り残された生徒達はしばらく静まり返り、呆然としていたが、ぽつりぽつりと帰り支度をする者もでてきた。

「よっしゃ、帰ろ帰ろ。マリンちゃんに早く金を渡さないと」

 ステフは机の上に散っているバラの花びらを手で払い、薄ぺったい鞄を手に取った。横では同じくカルシィーが鞄の中に教科書をしまっている。

「……君はあんな事を言われて悔しくはないのか?」
「俺? いや、そりゃあ腹立つよ。腹立つけどさ、ここを無事に卒業するだけで爵位がもらえるんだし我慢するしかないだろ」
「他のクラスは治水学Bの応用まで進んでいるらしい。爵位は貰えても、与えられたその爵位の重みが他のクラスの生徒と違うとは思わないのか?」
「いや、全然、これっぽっちも。子爵は子爵で男爵は男爵。パンはパンでそれ以上でもそれ以下でも無いだろう。俺は爵位が貰えればそれで良い。それまで大人しく黙って言われたことだけやってりゃ良いさ」

 カルシィーはそれ以上は何も言わず黙った。鞄に仕まうはずの教科書を手に持ったままだった。床には一枚のバラの花びらが落ちている。

「難しいこと考えてるとキリないぜ。程々にな。じゃあ、明日」

 手をひらひらとさせ、ステフは軽い足取りで教室を出て行った。カルシィーが足元を見ると落ちていたバラの花びらは靴で踏まれた跡があった。花びらを拾おうと屈んで手を伸ばしたが、踏みつけられた花びらは床の木目にこびりつき簡単には取れなかった。



・・・



 終礼と共に授業をさっさと終わらせたナルシィーは自分の机のある教員室にも戻らずにそのまま帰路についていた。仕事は定時ぴったりに始まりそして終わらせる。それが彼のポリシーであった。生徒の成績が悪かろうが良かろうが、知ったこっちゃない。自分の評価さえ悪くならなければそれで良い。出世欲も無く、自由気ままに快適に生きて行ければそれで良いのだ。
 学校より程近い通り沿いの場所にナルシィーの家がある。レンガ作りの小ぢんまりとした建物で、この建物の最上階に住んでいる。競歩の速度に近い速さで家に帰り、小指を立てながらエントランスホールのエレベーターのボタンを押す。エレベーターが到着し、扉が開くと同時に体を一回転させて乗り込む。誰が見ているわけでもないのに全ての動作がいちいち大袈裟で、そんな挙動も生徒から不気味に思われていた。
 エレベーターが五階に到着すると静かに開く扉からするりと足を伸ばしては、ステップを踏みながら自宅の玄関前に進んだ。胸ポケットから薔薇の飾りのついたキーホルダーを取り出し、十回程キーホルダーを指で振り回し、その手を天にかざしてから再び鍵を十回程回し鍵穴に差し込むとがちゃりと開けた。玄関前でじゃらじゃらじゃらじゃらうるさかった。

「ローゼッタ! ただいまっ! お前のご主人が今、帰ったよ!」

 ナルシィーは部屋に入るなり鞄を放り投げ、リビングの奥にあるカゴに真っ先に近寄った。カゴの側に置いてある手袋をはめ、カゴの蓋を開けると木屑の山の中に手を入れた。木屑の中からは黄土色の生き物が驚いたかのように飛び出し、カゴの中で暴れ回っている。その動物の背中には無数のトゲがあった。ハリネズミである。

「よしよし、寂しかったね。もう大丈夫だから。こらこら、そんなに暴れるんじゃないよ」

 ハリネズミのローゼッタは毛を逆立て威嚇をしているようだった。カゴに入れられたナルシィーの手に捕まるまいと木屑をばら撒き、餌皿をひっくり返し逃げ回っている。どうやら飼い主に懐いていないようだ。

「ああっ、もう! そんなに暴れたらトイレの砂が……」

 水の入った皿もひっくり返し、しまいにはトイレの砂を足で掻き出し中に入っていた大、小の塊りが飛び散った。

「ああああっ! もう! ローゼッタ! お痛が過ぎるうっ」

 頭に血がのぼったナルシィーは床を拳で叩き付けた。カゴの隙間から砂やら水やら木屑やらがこぼれ出て、フローリングの床は汚れてしまった。
 その時、外からけたたましいラッパの音が鳴り響いた。

「ああうるさいっ! 人が取り込み中の時に何だって騒音が!」

 どこにもぶつけることのできない苛立ちで頭に血がのぼっているナルシィーは急いでベランダへと出て行った。音の出どころに怒鳴り散らしてやろうと考えたのだ。
 ベランダから身を乗り出すと、そこには楽器を持ちながら通りを行進する音楽隊がいた。舌を出したユニコーンの紋章の御旗を掲げている。城の音楽隊である。

「そうか……もうそんな時期か」

 向かいの建物からも人々が窓から身を乗り出し、音楽隊がゆっくりと進む様子を眺めている。軽快な音色に合わせて機械的に動く足捌きに、一糸乱れぬ優雅な演奏。その音楽隊の後ろには大きなバルーンを乗せた馬車が付き従っている。
 バルーンの左側にはこう書かれていた。

『高時給、お金大好き、バカナ』

 そしてバルーンの右側にはもうひとつこう書かれていた。

『○月○日、舞踏会開催』


3.舞踏会にて

 街の小高い丘の上に城があった。そこにはこの辺りを統治している雰囲気の王が住んでいる。城では年に一度だけ舞踏会が開かれ、王より招待される特別な貴族の他にも全ての町民が自由に参加ができた。ただ、夜会服を用意しなくてはならず、洗練された立ち居振る舞いも求められるため、一般人にはあまり浸透していない。参加をするのは一部の限られた人々であった。
 やれドレスがどこのデザイナーのものなのか、デザインは流行りのものなのか、体のラインに沿っているものなのか、髪飾りのダイヤの大きさは、ティアラはどうしたこうした……お互いに値踏みし、相手の財の程度を測り、自分が相手がどの立ち位置にいるのかを把握する貴族達の腹と腹の探り合いの場でもあった。

 ドレスの裾を持ち上げながら馬車から降りると、近くにいた者達から歓声が上がった。

「マダムよ、マダム・メルシィーとカルシィー様だわっ」

 肩の開いた深緑のイブニングドレスは色の白いメルシィーにとても良く似合っていた。光沢と張りのある生地、そして知らない者がいない超有名デザイナー、アレクサンダー・ヴィン豚の特徴的なデザインである豚足を見事に取り入れたドレスは人々の視線を釘付けにしていた。

「うわ……すごい人ですね」
「そうかしら? 毎年人が減っている気がするわ。カルシィーは初めてですもんね。城の舞踏会に来るのは」
「そうですね。別に来たくもありませんでしたが、姉さんがしつこいので」
「何を言ってるの。社交界で繋がりを持つのは大切なことなのよ」

 メルシィーが一歩足を踏み出すごとにドレスの裾がさざなみのように揺れてそれはそれは美しかった。通り過ぎるとふわりと品の良い香水の香りが広がり、それがまた彼女の存在を強く印象付けているようだった。
 メルシィーの隣りを燕尾服を着たカルシィーが歩く。父親譲りの鼻筋の通ったきりりとした顔立ちとすらりとした体つきが貴族然としていた。カルシィーの姿を見た何人かの女性達は彼の隣りに並んで歩きたいと思う者もきっといるだろう。

 そんな二人が城の入り口までひかれた赤い絨毯の上を歩くと、人々の視線は羨望、妬み、欺瞞など様々な思惑のある視線を送った。そんな人々の視線には全く気にもとめず、二人が入り口に着くと、衛兵と何やらもめている婦人がいた。

「セルバンテスちゃんと一緒に中に入りたいのよ。トイレはちゃんとしてきたから大丈夫。去年は大丈夫だったわよ。どうなってるの?」

 婦人に連れられているセルバンテスと呼ばれる犬は犬用の衣装を着て華美に着飾ってはいるが、自分の腰についている飾りの孔雀の羽をかじり頭を振り回しむしり取っている。

「あら、サンポール夫人。こんばんは」
「マダム・メルシィーとカルシィーさん。ごきげんよう。あなた達もいらしたのね」

 犬のかじりとった羽が地面に散乱している。

「それがね、この子を連れて中に入っちゃダメだっていうのよ。去年は入れたのに」
「まぁそれは困りましたね」
「あの、いや。何度も言っておりますが、元々衛生的に動物の持ち込みは禁止となっておりまして……去年も禁止だったはずです」

 困ったように説明をする衛兵にサンポールは食ってかかった。

「セルバンテスちゃんは毎日炭酸泉のお風呂に入って毛穴からきれいきれいなのよ。まるで汚いものみたいに言わないでちょうだい」
「いや、そんなつもりは……しかし動物の持ち込みは……」

 羽を全てむしり取ったセルバンテスは突然に前脚を踏ん張りその場で固まった。何と、その場でトイレ(大)をしだしたのだ。

「この子は専属のトリマーもいるし、本当にきれいきれいな子なの。匂いだってシャボンの香りなのよ。人と一緒。バイ菌とかそういうのは無いの」
「……サンポール夫人、そこでトイレをしていますよ。そのセルバンテスが」

 カルシィーがサンポールの肩をたたき、指をさしたそこには出したばかりの犬の落とし物があった。

「あらあら、まぁまぁ! ちょっと、やだ。この子ったら。今日はトイレバック持って来てないのよ。こんなところでおトイレしちゃって!」
「あら、ほかほかね」

 赤い絨毯の上にぽつりと置かれたそれをメルシィーはしげしげと眺め感心したように呟いた。横にいる衛兵は虚な目で犬とサンポールを見つめている。わけのわからない貴族を相手にするのはとても疲れるのだろう。

「……姉さん、行きましょう」

 一人で騒いでいるサンポールを横目に、二人は城の中へと入って行った。飼い犬のトイレマナーは飼い主の責任である。

 城に入ると既にエントランスホールには多くの人々が集まっていた。天井に吊るされたいくつかのシャンデリアが煌めいている。その煌めきの下、人々は思い思いに着飾り、華やかでまるで宝石箱の中にいるようであった。

「どなたか知ってる方にご挨拶をしたいわ」
「人の多さに酔いそうです……早く帰りたい」
「本当にあなたって人はどうしてそうなのかしら。困った人だわ。年齢があがるにつれてこういう機会は増えるのよ」
「家柄や何の意味も持たない爵位にぶら下がっている人達と話すことなんてありませんよ……外の空気を吸って来ます」

 カルシィーは人混みをすり抜けるようにしてどこかへ行ってしまった。

「本当に困った人だわ。もう……」

 途方にくれたメルシィーは、頬に手を当てて小さくため息をついた。カルシィーはずっとこのような社交界に顔を出すことを嫌がっていた。なぜ弟がそんなに嫌がるのかメルシィーには理解ができていない。
 ちょうどウエイターが飲み物を運んで来て、メルシィーはグラスをひとつ受け取った。グラスには薄い金色のシャンパンが入っている。グラスの中心より真っ直ぐと立ちのぼる気泡を眺めながらぼんやりとしていると

「何だっ! これはっ!」

 メルシィーの立つすぐ後ろで大声がした。驚いて振り返ると細身の白に近いシルバーのタキシードを着た男が肩を震わせている。

「僕の靴が汚れたじゃないか! 何だこれは!」

 メルシィーは急に大声を出した男に怖くなって一歩後退りをした。周りの人々も何事かと男の方に顔を向けている。男は突然に片足を持ち上げ履いている靴を脱いだ。

「ん? 見ろ、お前だな! お前が持ち込んだんじゃないか!」

 男は急にメルシィーを指差しメルシィーのすぐ足元に靴を投げた。ごろんと床に転がった靴に当たらないように周りの人々はメルシィーと男から距離をとった。その場は二人を取り囲むようにぽっかりと穴ができた。

「何てことを……どういうことですか?」

 メルシィーは無礼な振る舞いをする男に眉をひそめた。わけがわからなかった。

「それはこっちの台詞だ! こんな場所にとんでもないものを持ち込みやがって! お前の裾を見てみろ」

 言われた通りにドレスの裾を見ると、何とそこにはころんとした茶色の塊があった。茶色の塊はそう、先ほどのあれである。サンポールの愛犬、セルバンテスの落とし物だった。ドレスの裾で引きずり、この場所まで持ち込んでいたのだ。犬の糞を。

「どう弁償してくれるんだ! 踏んじゃったじゃないか! この靴はコードバンなんだぞ! 馬革だ! 臭いじゃないか!」
「私も気づかなかったのです。うっかりしてました。クリーニング代は弁償しますわ」
「金の問題じゃないんだよ! 気持ちだよ気持ち! この靴をもう一度履きたいと思うかどうかだよ!」
「なら同じ物を購入しましょう。それでどうでしょう? 一足ですか? 二足ですか?」

 男は顔を真っ赤にして怒りで震えている。そこへ、騒ぎに気付いたカルシィーが人混みをぬって二人の元へと駆けつけた。

「姉さん……それとナルシィー先生? 一体何──」
「そんなに怒ることじゃありませんよ。それに、うんがつくって言いますし」

 メルシィーの余計なひと言で、ナルシィーはさらに頭に血が上ったらしく、唇を噛み締め唇からは血が滲んだ。

「もうっいいっ! お前の顔は覚えたからな!」

 あまりの怒りで声が上擦り、裏声のような甲高い声で叫んだ。そしてもう片方の履いていた靴も脱ぎ、床に叩きつけるとメルシィーをひと睨みしてその場を後にした。人々はナルシィーを避けるようにして城の出入り口まで道を作っていた。

「姉さん一体何が? なぜあの人と揉めたんです?」

 カルシィーは状況が飲み込めずに、どうしたら良いかわからない。遅れて城の衛兵が数人駆け付けてきて、とりあえず転がっている靴と踏まれた犬の糞を片付け始めた。

「何だか怒られちゃったわ。私のドレスも汚れたみたい。帰りましょう。少し疲れたわ」
「それはそうですが……一体何が?」

 なぜかドレスの裾が汚れている姉と、自分の教師であるナルシィーが揉めた原因がサンポール夫人の愛犬セルバンテスであることを知ってカルシィーが愕然とするのはあと数分後のことであった。
 そして彼はこの時は知る由も無かった。靴をダメにされた仕返しにナルシィーによる壮絶な嫌がらせが始まることを。

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