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一線を越える 6

男は胸を押さえた。自身のゴツイ胸板の感触が掌を押し返して伝わる。指で掴むように筋肉に圧力をかける。半眼で呼吸を深くし、気を集中する。「筋肉は裏切らない」と低く呟く。自分を落ち着かせたい時や、考え過ぎて熱くなった頭を冷ます時に行う白朗のルーティンだ。掌から伝わる確かな筋肉の拍動とその感触。頭にカッと上がった熱が徐々に冷めていき、冷静な自分が再び戻って来るように感じた。
白朗は刑事だ。正義感が強く、熱血漢の性格で、刑事の仕事は天職だと白朗は思う。趣味は筋トレ。週3日のジム通いは欠かせない。高い鼻梁に太眉の強面で、上背もあり筋骨隆々の為に、初対面の子供にはほぼ間違いなく泣かれる。しかし、よく見ると目だけは優しい色をたたえており、彼の妻曰く、「ジャングルの巨象が道に咲いた花を踏まないようにそっと脚を避ける時の優しい目」との事。
白朗は大きな背を屈めて、机の上に散らばった事件資料を手早くまとめて出勤の準備をする。階下では娘が出掛けていく気配がする。急いで道路に面した窓を開け、玄関先を見下ろして登校する子供たちに呼び掛ける。
「行ってらっしゃい。気をつけて行くんだぞ。」
美しい朝靄の中をじゃれ合い、後先になって笑いさざめく子供たちの様子は平和の体現といった風で、見送る白朗の厳つい頬には微かに柔らかい笑みが浮かんだ。窓辺で子供たちを眩しく見つめる一方で、白朗はゆっくりと振り返り、机の上にある先程まで目を通していた事件資料を見つめる。もう頬の笑みは消えている。平和な日常を暮らす人々を脅かす連続失踪事件。担当刑事である白朗は、事件のもたらす暗い予感に再び胸を押さえた。

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