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ショートショート『ビール娘』

 「あなた、この調子じゃ死んじゃいますよ」そう医者に言われた。「気持ちはわかるけどね」

 医者は自身のビール腹をさすった。白衣の下に樽でも隠しているのだろうか。

 「最近はみんなそうだよ。すっかりビール娘に夢中さ」

彼はオンラインゲームの話をしているのだ。僕もそれにハマっていた。

『ビール娘』はクラフトビールを飲んで推しを育てるゲームだ。缶に印刷されたバーコードをスマホで読みとると、ランダムで物語が進行する。個性豊かなキャラクターたちが僕らを待っている。当初、ビール缶は実店舗で販売されていたが、――あまりにゲームが流行ってしまい、未購入のバーコードまで読みとる輩が出てきて――今は通販のみになっている。

 それでも人気は止まらないというか、人の目を気にしなくなった通称ビームーたちは、飲みもしないビール缶を箱で買いまくった。

「ゲームを続けたい気持ちはわかるよ」と医者はいかにも同情した声で言った。「でもその度にビールを飲む必要はないんだ。これからはバーコードを読み取るだけにしなさい」

 その忠告は最もだった。しかし僕ははっきりと首を横に振った。

「でもそれじゃ、あの子たちの気持ちを裏切ることになってしまう。飲んでくれてありがとう。その言葉に嘘はつきたくないんです」

 僕の声は興奮でうわずっていた。そのうえ思わずゲップが出た。ビールのもわっとした臭いが宙を漂った。

 医者は溜め息をついてから、「愛のために死にたい、か……」と言った。「世も末だね」

 その口臭にもまたビールの臭いがした。僕は医者の手を取りたくなった。でも目の前がぼやけてそれどころではなかった。吐き気までする。辛うじて、「これが愛の苦しみなんですよ」と僕は言った。


 最後に医者は『ビール娘』の缶をこっそり僕にプレゼントしてくれた。

 「君の覚悟はよくわかった。そこまでいうなら、私がいくらやめろと言ったところで変わるまい。だけどこれを飲んで、もう一度よくよく考えてみたまえ」

 うちに帰るなり、キッチンテーブルに座って、『ビール娘』のプルタブを開けた。プシュっと爽快な音が響き、爽やかな香りが部屋に広がった。つまみはない。ビールのみだ。ほとんどビールだけで最近は済ましている。まともな食欲が出ないのだ。

 意を決してビール缶に口をつけ、喉の奥めがけて一気に流しこんだ。黄金色の液体も喉ごしも、もううんざりだった。そんなもの見たくもないし、感じたくもない。大事なのはビール娘だけだ。それ以外はどうでもいい。だけど、彼女に会うためにはこの試練にも耐えなくちゃいけない。

 ようやく苦行の瞬間が終わった。頭がくらくらする。なんとか意識を保ちながら、医者からもらった『ビール娘』のバーコードを読みとった。スマホの画面上でアプリが起動される。祝祭的なファンファーレとド派手な花火による演出、その後、画面の奥からビール娘が現れる。

 「こんにちは」とビール娘がとびきりの笑顔で言った。その顔になんだか見覚えがあるような気がした。

 「わたしのこと覚えてないの?」今度は悲しげな声だった。その声にも聞き覚えがあった。でもだめだ、全然思い出せない。僕はあまりに多くのビール娘に会いすぎた。一人ひとりのことなどもはや覚えていない。少しでもレアな、少しでも完璧な推しを追いかけてきた。だけどこのざまだ。何一つ残らず、何一つ思いだせない。

 「あなたのことずっと待ってたのに……」くらくらする頭と伸びきった胃をなんとか抑えて、僕は考えた。なんと言えばいいんだろう? 言葉が見つからない。またゲップが出そうになる。まったく、こんな時にもゲップかよ。

 でもそれで思い出した。そうか、あの子は僕にとっての初めてのビール娘だ。緊張と感動で思わずゲップしてしまった僕を見て、彼女は笑い、こう言った。「飲みすぎには注意しなさいね」

 肩の荷が下りたような気がした。もうこれ以上飲まなくていいんだ。無理して飲む必要なんかどこにもないんだ。ビール娘はべつに飲んでくれと頼んでいたわけじゃないんだ。

 こうして僕は初心を取り戻した。

 「これからは一日一杯だけにするよ」と僕が言うと、祝祭的なポンという喜びのジャンプを見せて、ビール娘はスマホの画面から蒸発した。

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