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ショートショート『町一番のビル』

 雪深い町の旅館に測量士Kがやってきたのは、すっかり夜も更けた頃だった。Kは町一番のビルから仕事の依頼を受けてやって来たのだ。

 「ご予約はされてますか?」と受付の男が尋ねた。陰気な顔をして、頭髪はほとんど禿げかけていた。

 「いや」Kは首を振った。

 「そうですか。じゃあ、他をあたってくださいな」

 「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」Kは面食らって言った。「一部屋ぐらい空いてるでしょう」実際、宿の外観もエントランスもとても満室とは思えないほど寂れていたのだ。

 「うちは予約がないとねえ、ちょっと」男の声はいかにも面倒臭そうだった。

 「でも私は、この町のビルから仕事の依頼を受けて来たんですよ。先方が既に、話は通してあるって言ってたけど」

 それを聞いて、受付の男は急に顔色を変えた。Kはその反応に手応えを感じて、手持ちの鞄から一枚の書類を取りだした。男は恐る恐るその文面に目を走らせる。それから「少々お待ちくださいませ」と言って、受付の奥に引っ込み、電話をかけ、誰かと話しはじめた。話の内容を聞き取ることはできなかったが、男のいかにもかしこまった――電話越しにもかかわらず――頭を下げる様子から、通話の相手が目上の存在であることは容易に推測できた。

 男は電話を切ったあと、ふうと息を吐いて、額の汗を手の甲で拭っていた。そのいかにも慌てた様子がKには愉快だった。男が再び、Kの前に立ったとき、その顔はまるでゆで卵の殻を剥いたようにつるりと爽やかで、そこには百点満点のビジネススマイルが浮かんでいた。

 「申し訳ございませんでした。ビルからの許可があるとはつゆ知らず、失礼を致しまして」男は深々と頭を下げた。あやうく天と地が逆転しそうな勢いで。

 「じゃあ、部屋は用意できるんですね?」

 「もちろんでございます。こちらの303号室をお使いくださいませ」男はうやうやしく鍵を差し出した。「最上階の角部屋で日当たりも抜群でございます」

 男のあまりの変わりようがKには不思議だったが、とりあえず宿を確保できたことに気を良くしていた。いろいろと言いたいことはあったが、男の気がまた百八十度変わっても困るので、促されるまま三階の部屋にむかった。スーツケースはあとから男が運んでくれるらしい。普段は絶対やらないだろうに、とKは内心苦々しく思ったが、お言葉に甘えることにした。

 部屋は思いのほか広く清潔だった。Kは鞄を畳のうえに置き、カーテンを開いて外の景色を眺めた。真っ暗でほとんど何も見えなかったが、雪がしんしんと降るさまは見てとれた。やがてきちんと三回丁寧にノックする音がし、「どうぞ」とKが答えると、受付の男がお盆をもって現れた。またしてもKは、普段はやらないことなんだろうなと密かに思った。男はお盆をお姫様か何かのように、極度に丁重に扱っていた。まるで三十年越しの秘められた愛を頑なに明かそうとしない、忠実な従者のようにその顔つきは厳粛だった。

 「お口に合うかどうかわかりませんが」男はお茶と饅頭を座卓のうえに並べた。

 それから「スーツケースはどちらにお持ちしましょうか?」と訊くので、Kは「どっかそのあたりに適当に」と部屋の隅っこを指差した。

 男は一度部屋から出て、スーツケースをこれもまた、クフ王のミイラを扱うかのように丁重に運び、部屋の隅にうやうやしく鎮座させた。

 「ほかに何か御用はありませんか?」男は畳に両膝と両手を着いて、そう尋ねた。彼の職業人生一の働きぶりだろう、とKは推測した。

 「明日早速ビルへ行こうと思うんですが、困ったことに――向こうの手違いなのか――住所を知らされてなくて。もしや、あなたはその場所をご存知ではないですか?」

 「はあ」男は困ったような顔をした。「わたくしもそこまでは知らなくて」

 「でも先ほど、電話をかけてたのはビルの人じゃないんですか?」

 「ええ、そうですけど」

 「でも住所は知らないと」

 「はい」男は卑屈な鼠のような表情で苦笑した。

 「……では、そこの電話番号を教えていただけますか?」

 Kは番号をひかえ、男が引き上げるなり、電話をかけた。

 「お電話ありがとうございます。こちらビルの受付でございます」はきはきした女性の声だった。

 「お世話になります。わたくしKと申します。本日、測量士としてこの町に派遣されたものですが――ええ、はい、はい、そうです」

 「そうしましたら明日の九時に弊社までお越しください。お宿を出て、中央通りに行き、そこを突き当たりまで進みましたら本社がございます。受付にて、お名前とご用件をお申し付けくださいませ」

 「わかりました」とKは答えた。「あの、念のため住所をお聞きしてもよろしいですか?」

 「申し訳ございませんが、それは企業秘密でして」

 「企業秘密?」

 「はい。弊社のコーポレート・ガバナンス上そうなっております」

 「……でも、わたしは御社に雇われた身ですよ。どのみち明日伺うんですから、秘密も何もないでしょう?」

 「はい。しかしながら、例外というものはございませんので」

 Kには訳がわからなかった。急にきりきりと頭が痛み出した。電車を乗り継いで、はるばる遠い地までやって来た疲れもあった。とりあえず先のことはまた明日になってから考えよう。それに町一番のビルらしいからすぐにわかるだろう。Kは「それでは明日よろしくお願い致します。失礼します」と言って、電話を切った。


 翌朝、支度を整え、Kは町に出た。受付の女性に言われた通り、中央通りを突き当たりまで進んだが、ビルの場所はわからなかった。それほど大きな町ではないはずだが、想定していたよりもずっとビルの数は多かった。それに町一番のビルと言われて来たが、どのビルも似たり寄ったりで、高さも同じなら、見た目も同じ、判で押したように味気ないビル群にKの気持ちは折れそうだった。

 気を取り直して再度、電話をかけてみた。しかし呼び出し音が鳴るばかりで、五、六回かけ直してみても、うんともすんとも言わないので、最後には諦めてしまった。こうなったら、しらみつぶしに一棟ずつ当たってみるしかない。多いといってもたかが知れている。昼までには突き止められるだろう。

 でも結局、Kが何度その名前と用件を告げても、受付の誰一人として取り次いではくれなかった。それどころか、Kが向かうはずのビルの存在すら誰もわからなかった。まあ、それも仕方がないだろう。なぜならKは「町一番のビルなんですよ」としか言えなかったし、それに対して受付の誰もが「はあ、そう言われましても……それだけの情報だけでは対処しかねます」と答えるしかなかったからだ。

 Kは今度こそ途方に暮れてしまった。夕闇はもうそこまで迫っている。雪はあいかわらず降り続け、その雪片が――コートを着ていてもなお――Kの体を寒さで苛んだ。疲労が極限まで溜まっていた彼は、逃げるようにして宿に引き返した。

 すると、旅館のまえで顔も知らない二人の男がKを待っていた。

 「こんちは」と片方が言った。「Kさんですか?」

 Kは黙って肯いた。もう片方がどうもと言って頭を下げた。二人はビルから派遣されたKの助手だと名乗った。まあ立ち話もなんだし、と言ってKは二人を連れて宿に入り、エントランスにある貧相なソファに横並びで腰かけた。

 「一日じゅう歩き回ってくたくただよ。いったいビルはどこにあるんだい?」Kはため息混じりにそう訊いた。

 助手の二人は互いに顔を見合わせてから、Kに向き直って肩をすくめた。

 「まさか、君たちも知らないのかい?」Kは唖然として言った。

 「許可がないとビルには入れないんですよ」と片方が申し訳なさそうに言った。

 「でも君たちはそのビルから派遣されて来たんだろう? なんでその場所も知らないんだよ」

 「なんせ僕らも初めて雇われた身ですから」もう片方が妙にあっけらかんとして答えた。

 Kは心底がっかりした。芽生えかけていた希望の種があっけなく踏み潰されてしまった。

 「住所も教えないで、私にいったいどうしろって言うんだ!」

 「電話してみたらどうでしょう?」と片方が提案した。

 「何度もしてみたよ。でも一向に出ないんだ」

 「それはきっと都合が悪かったんですよ。もう一度電話してみましょう」ともう片方が励ました。

 Kには口論する気力もなかった。大きな溜め息をついてから、電話をかけてみた。すると、昨夜とは違う年輩の男性の声がした。

 「はい。こちらビルの受付でございます」

 「あ、お世話になります。わたくしKと申します。測量士として御社に派遣されたものでして、本日――」

 年輩の男性はKの言葉を断ち切った。「測量士など雇った覚えはありませんが」

 「え、いやでも、たしかに御社のビルでして。こちらに書面でも届いております」Kは急に心配になって、鞄から契約書を取りだした。「恐縮ですが、代表者様のお名前は〇〇様でお間違いありませんよね?」

 「ええ」冷酷と言ってもいいような声がした。「しかし、私は〇〇の秘書をやっておりますが、そのような話は一切聞いていません」

 「ですが、昨夜お電話を差し上げたときには、受付の方が明日の九時にお伺いするよう、おっしゃっていたのですが」

 「ですから」その声は完全に苛立っていた。「私はそんな話聞いたこともありません。再度派遣元に確認してみてください」

 「……わかりました。それでは確認次第うかがいますので、明日以降ご都合のいい時間を教えていただけますか?」

 「いや、結構です。永久にいらっしゃらなくてもいい」そう言い残して、秘書はがちゃりと電話を切った。

 二人の助手は心配そうな目でKを見ていた。Kはかろうじて「君たち、夕飯は食べたかい?」と尋ねた。


 三人は黙々と旅館の食堂で、うまいともまずいとも言えない食事を取っていた。そこにビルからの使いだという若い男が、息せき切ってやってきた。男は誇らしげな顔でKに封筒を差し出した。それはビルの専務だという黒田からの手紙だった。内容は、本日付けでKは正式に測量士としてビルから雇われた、そして彼の直属の上司は町長であるというものだった。

 「あなたはこの手紙を黒田さんから託されたんですね?」Kはすがる思いで確認した。

 「はい、そうです!」使いの男は元気よく答えた。

 「だったら、黒田専務の居場所もご存知ですよね」

 「もちろんです」

 「もし良かったら、今からそちらまで案内してもらえないですか?」

 「構いませんよ。どうせそこまで帰るつもりですから」

 渡りに船の話だった。Kは町に着いてからの奇妙な洗礼からすっかり疑心暗鬼になっていたが、この話に飛びつかない手はなかった。二人の助手を引き連れ、使いの男の後について歩き始めた。雪はますます降る勢いを増しており、視界がぼやけ、ここがどこだかもわからなかった。Kは両手で顔の前を覆って、なんとか一歩一歩、雪深い道を踏み分け踏み分け進んだ。使いの男はさすがに慣れているのか、ずんずん歩いていく。Kは自分が付いていくのがやっとで、助手たちのことまで構ってられなかった。しかし彼らは執念深い蟻のような粘り強さでKに食らいついていた。片方が片手でKのコートの端っこを掴み、もう片方とはぐれないように手を繋いでいた。

 「こちらです!」

 使いの男がようやく立ち止まって、指し示した建物は立派なホテルだった。Kはその外観を見上げるが、吹雪のせいで頂上まで見ることはできない。

 「ここに黒田専務がいるんですね?」

 「ええ、そうです」使いの男は意気揚々とホテルの中に入っていった。Kと二人の助手もあとに続いた。

 一階には洗練されたバーが併設されており、使いの男はしばらくそちらに目をやってから、「今はいらっしゃらないようです」と言った。

 「呼び出してもらうことはできないですか?」Kは一か八か頼んでみた。もうこれ以上待たされるのはごめんだった。

 「それは無理ですよ」使いの男は当然だめだといった口調で断った。「もうこんな時間ですからね。お休みになっててもおかしくない」

 「じゃあせめて、伝言だけでも」

 「だめです」またしても使いの男はきっぱり断った。「黒田専務は時間に厳しいお方なのです。もし常識外れなことをしたら、どうなるか……」

 「じゃあ少し待ってみましょう」とKは提案した。「あそこのバーで一杯どうです? 奢りますよ」

 男は嬉々としてその申し出を引き受けた。バーの入口まで来てから、Kは助手たちの存在にやっと気がついた。

 「もう時間も遅いし、君たちは家に帰ってくれ」とKは言った。

 「うちなんかありゃしません」と片方が答えた。

 「だって君らはこの町の住人だろ?」

 「そうですけど、今はあなたの助手です。ビルから、あなたに付きっきりでいるよう指示されてるんです」ともう片方が答えた。

 「いや、でも今日はもう用がないんだよ。頼むからいったん家に帰ってくれ。また明日連絡するから」

 「だめです。職務規程でちゃんと決まってるんですよ。業務が完了するまでは家に帰れないって」

 「なんだい、それは!」Kはついに怒鳴り声を上げてしまった。「仕事がないのが現状なんだよ。だから君たちにもできることはない!」

 それでも助手たちはKの言うことを聞こうとしなかった。いつのまにか口論になっており、Kは「お前たちはクビだ!」と叫んでいた。それを見かねたホテルの従業員が仲裁に入ったとき、Kはこの二人を放り出してくれと頼んだ。助手たちは抗議の声を上げたが、間もなく屈強な警備員がやってきて二人をホテルの外に追い出した。Kはそれを見届け、ようやく安堵の溜め息をついた。そして使いの男とバーに入り、強い酒を注文した。


 目が覚めたとき、Kはバーのカウンターに突っ伏していた。店内は薄暗く、彼以外誰もいなかった。掛け時計は十三時十三分を指している。頭がずきずきと痛み、吐き気がした。Kはしばらく虚ろな顔で宙を眺めていた。それからふと町長に会いに行こうと思い立ち、重い腰を上げ、ふらふらとよろめきながらバーを出た。彼はひと呼吸してからホテルのドアを開け、雪に覆われた町に吸い込まれていった。

 その日の夜、ビルの脇道で蹴つまずいたような格好で凍死している一人の男が発見された。その手には凍りついた一枚の書類が握り締められていた。ビルはそのときをもって正式に、Kを解雇することに成功した。

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