大型車両における承認欲求と潜在的ヒエラルキーについて
緊急事態宣言が発令しないGWは実に2年振りである。連休中の高速道路は何時ものGWらしく大変混雑していたが、逆に配送している多くの店舗は客足が鈍いように感じた。今までの行動制限の鬱憤を晴らすが如く、皆遠くに出掛けたのかも知れない。
今回は我が社も含めた運送業界に古くから深く根付いているであろう「大型車両における承認欲求と潜在的ヒエラルキー」について、つまらぬ独り言を書いてみたい。
「承認欲求」という言葉を聞くと何時も「SNSの存在」という言葉が脳裏をよぎる。 何故ならSNSの出現によって個人が容易に承認欲求を満たす事が可能になったからなのだが、その辺のところは過去の記事「SNS疲れに関して思う事」でも触れている。
だが承認欲求を満たす事に関して言えば、運送業界も負けてはいないと思う。何故か?
運送会社には様々な車格のトラックが存在するのだが、例えば大型車両を運転する者は他の車格のトラックに比べて上から見下ろすので優越感に浸りやすい。
そして大型車両を運転するという事は相応の運転技術を要する訳で、他の車格のドライバーや一般車に対して「どうだ?俺って凄いだろう?」という承認欲求を満たす事にも繋がってゆく。
一般車に当て嵌めても分かると思うのだが、総じてミニバンや高級車が他の自動車を煽ったり、我が物顔で公道を走っているケースが多いのも乗っている車自体が他の車より大きい又は高級という事実に基づき、その事実を背景にして優越感と潜在的なヒエラルキーを感じているからだ。
今まで私自身が見ている中で、殊に大型車両を運転する者はこの「大型車両を転がしている」という事実に自己陶酔して妙なアイデンティティーを持っている人間が多いと感じる。
推察なので真実はどうか分からないのだが、会話の中の端々に大型ドライバーとしての矜持とも感じられる言動を察する事も多く散見されるのも又、事実である。
そんな状況下で、我が社に存在するドライバーの中に妙なアイデンティティーを持っているが故に独自のヒエラルキーを設定している人間がいる。
彼は長年、大型車両を乗務した経験から独自の大型哲学(?)をお持ちの様で、その思想を周りの年下連中に啓蒙する事を何より信条としてきた。
若い世代側が発する疑問に対してその都度、包括的に答える人間ならば下の者から全幅の信頼を得られるだろう。だが彼はその真逆で、若い人間を捕まえては大型車両に関する蘊蓄や大型哲学の啓蒙活動に執心しており、それは大型教という宗教心の教化とも言えた。
若い世代からすればありがた迷惑な話である。
そして何より彼の発する言葉の端々には車格の小さいトラックのドライバーに対しての歪んだヒエラルキーを感じさせる。恐らく本人の中では「大型を乗らぬ人間はドライバーではない」とでも思っているのだろう。彼にとって大型車両に乗務する事こそが最大の生き甲斐なのであり、人生そのものなのだ。
彼の場合は極端だが、大型車両を転がす事にアイデンティティーを見出だす職人気質のドライバーはどの運送会社にも存在する。それ自体が悪い事とは思わないが、そういうタイプが実に多い事に少なからず驚かせる。
長年「大型車両における承認欲求と潜在的ヒエラルキー」について違和感を持っていた私自身はどうかと言うと、長年における啓蒙活動を信条とする件の彼に対する反発心と実際に大型車両に乗務する事で何か精神的に変化するかどうかを実際に確認する為に昨年から大型車両に乗務している。
結果どうなったかと言うと
「優越感はある。承認欲求を満たす時もある。しかしそこにアイデンティティーを見出だす事はないし、況してやヒエラルキーを感じる事などもっての他。」
である。
要するに「大型車両を転がしている」という事実に対する個々の入れ込み具合に左右されるという事であろう。事故を起こすリスクは車格に関係なく存在する。アイデンティティーやヒエラルキーを感じる前に日々の事故防止に対する意識を上げた方が余程大事である。
大型哲学の啓蒙活動を信条として若い世代に対して絶大なインパクトを残した彼。今では定年も近くなり、大型車両を降りて他の車格のトラックに乗っておられる様だが、何時の日か引退される時に餞(はなむけ)の言葉としてこう送りたい。
「長い間大変お疲れ様でした。 そして色々とお世話になりました。 ところで・・・ 貴方が後生大事にしていた大型ですが、貴方が言う程大した事無かったですね。」
最後までお読み頂き有り難うございました。 いつも拙い頭で暗中模索し、徒手空拳で書いています。皆様からのご意見・ご感想を頂けると嬉しいです。